第128話「語られ始めた“逃亡”」
救われた命が、静かに目を覚ます。
だが、その背後には――まだ語られていない“追われる理由”があった。
数時間後――
静かな蒼月亭の一室で、獣人の男はゆっくりと目を開けた。
「……」
見慣れない天井。
木の香り。
そして――
「やっと起きたのかい?」
柔らかな声。
視線を向けると、そこにはミレーヌが立っていた。
「ここは……?」
かすれた声で問う。
「うちの宿屋さ。いつまでも床に寝かせておくわけにはいかないだろ」
「……宿屋……」
まだ状況を飲み込めていない様子の男に、横からアリアが顔を出す。
「大丈夫?体、まだ無理しないでね」
「……エルフ?」
目を見開く獣人。
「そうよ」
アリアはあっさりと答えた。
「人間と……エルフが共存してる……?」
信じられないものを見るような表情。
「ここは特別」
アリアは少し誇らしげに言う。
「女将さん達がいい人だからね」
「自分で言うかい?」
ミレーヌが苦笑する。
「事実だからいいの!」
アリアはさらりと言い切った。
獣人はしばらくそのやり取りを見ていたが、やがて力が抜けたように小さく息を吐く。
「……そうか……」
その一言には、わずかな安堵が混じっていた。
「で、どうしたんだい?」
ミレーヌが腰に手を当てて、まっすぐに問う。
「ただ逃げてきたって顔じゃないだろ」
獣人は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。
だが――
「……実は」
ゆっくりと口を開く。
「逃げ出してきたんです」
部屋の空気がわずかに張り詰める。
「何処から?」
ミレーヌの問い。
獣人は、少しだけ視線を落とし――
「……黒焔城からです」
その名が、静かに落ちた。
「……?」
セラが首を傾げる。
「知ってる?」
「私は聞いたことある」
リディアがすぐに答えた。
その声はいつもよりわずかに低い。
「魔族領の中でも、強硬派の拠点の一つ」
「えっ……」
セラの顔が引きつる。
「私は知らない……」
アリアは正直に言う。
「エルフの里には、あまり入ってこない情報ね」
「でしょうね」
リディアは腕を組む。
「表に出ない類の場所よ」
その言葉に、獣人が小さく頷いた。
「……はい。表には、出ない」
部屋の空気が、少し重くなる。
ミレーヌは一度だけ深く息を吐き――
「なるほどね」
と呟いた。
「で?」
視線を獣人に戻す。
「どうしてそんな所にいた?」
その問いは、優しくもあり、逃げ場のないものだった。
獣人は、しばらく黙っていたが――
やがて、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……捕まっていたんです」
「――誰に?」
「魔族の兵に」
部屋の空気が、静かに凍る。
「……」
リディアの目が細くなる。
アリアは言葉を失い、セラは思わず息を飲んだ。
ミレーヌだけが、変わらぬ表情で続ける。
「理由は?」
獣人は一瞬だけ迷い――
「……錬金術、です」
その言葉が落ちた瞬間。
リディアの視線が鋭く光った。
「なるほど」
短い一言。
「面倒なの拾ってきたわね」
「えっ、そういう言い方⁉︎」
セラが思わずツッコむ。
「事実よ」
リディアは淡々としている。
「でも――」
そのまま、獣人を真っ直ぐ見た。
「見捨てる理由にはならない」
その言葉に、部屋の空気がわずかに緩む。
獣人は、しばらく何も言えなかった。
ただ――
「……ありがとうございます」
それだけを、静かに口にした。
リディアは背を向け、扉の方へ向かう。
「休みなさい」
振り返らずに言う。
「次に来る時は――もっと厄介なのが来る」
「怖いこと言わないでくださいよ……」
レオンの声が外から聞こえる。
「事実でしょ」
リディアの即答。
静かな部屋に、再び日常が戻り始める。
だが――
“黒焔城”
その名は、確かに紅陽に影を落とし始めていた。
ついに明かされた、獣人の男の過去。
そして浮かび上がる「黒焔城」という存在。
紅陽は、静かに“戦いの外側”から――
“渦の中心”へと引き寄せられていく。




