第776話 今さら
「イヴさん、そろそろ」
「……」
イヴの指示通り1刻以上の戦闘を何とかやり終え。
湖畔の館から2人で離脱した後、そのまま駆け続けることさらに1刻半。
「この辺りで別れましょうか」
「……ええ」
周りの景色からサヴィラ湖が消え失せた今。
目に入ってくる眺めは、まったくの別物となっている。
当然、シャリヌ手勢の気配などなし。
それどころか、人影ひとつ見あたらない。
「明日の昼までには領主館を訪れるつもりですが、何か問題がありましたら私の宿の方に」
「夕連亭、ですね?」
街道から随分と離れた地点、その小高い丘でイヴが確認してくる。
「はい」
「夕連亭……」
何か思うところでもあるのだろう。
夕連亭の名を口にすると、イヴの目があらぬ方向に向いてしまう。
確かに、あの宿は普通じゃない。
人で賑わう1階の食堂も掃除の行き届いた階上の客室も都市の繁盛店にしか見えない。が、その外見とは裏腹に何か、暗い何かを隠し持っている。とはいえ、それを知るのは僅かな者のみ。ほとんど全ての来客は美味しい料理と酒、居心地の良い部屋を求めやって来るだけ。
本来なら俺もそうであったはず。
ただ偶然、夕連亭の闇を垣間見てしまったから。
ある程度の関わりを持ってしまったから。
今はもうまったくの無関係という場には戻れない。
けど、イヴは違う。
長年オルドウを離れていた彼女が夕連亭に関わりがあるとは思えない。
そんなイヴがなぜ?
「……」
なんて、ここで考えることじゃないな。
今考えるべきは明日以降のこと、オルドウ領とササリーシャ嬢のこと。
そして、離島に残してきた幸奈たちのこと。
とりあえず、そう。
さっさとイヴから離れ野宿の準備をしたい。
「それでは、イヴさん」
とはいえ、朝まで野宿をするつもりはない。
仮眠をとった後は離島に戻るのだから。
「また明日」
「ええ」
頷くイヴに背を向け、丘を下る。
街道とは逆の方向に駆ける。
「……」
仮眠を終えた頃には異世界間移動も充分可能なはず。
離島に戻れるはず。
しんと静まり返った寝室。
隣室からも物音一つ聞こえない。
感知で探った結果も同じ。
隣も、廊下も、幸奈たちの休む客室も、何の問題も感じられない。
仮眠をとりすぎて少々遅れてしまったが、まずは一安心、か。
「……」
幸奈たちから離れあちらで過ごすこと12時間以上。
不穏な状況下でなぜだか軽率に使ってしまった異世界間移動。
湖畔の館に移動した後もずっと重かった心が軽くなっていく。
「ふぅぅ」
思わず安堵の息が漏れ出てしまう。
緊張感も薄れて。
「……よかった」
まあ、そうはいっても、こっちの時間では深夜の4時間程度が経過したにすぎない。今はまだ鷹郷さんたちが安全を保障してくれた夜闇の時間。
「夜明けまで1時間弱」
どうする?
もう少し休むか?
いや、眠くないな。
だったら……。
外を見回るとしよう。
宿を出てすぐの車道。
まだ闇が深いこの時間、人の姿はまったく見られない。
異能者や異形の気配も皆無。
それでも、慎重に感知の網を巡らせながら歩を進めていく。
「……」
幸奈たちの無事を確認した上での見回り。
当然、 足は軽いし心も軽い。
とはいえ、油断は禁物。
異形の群れ現出の謎、逃亡中の江良など、問題はまだまだ残っている。
気を緩めていい状況じゃない。
それに加え、あちらのこともそう。
「……」
帰還して安否確認を終えた今、逆にオルドウの件が気になってしまう。
館の正門前での俺は、結局イヴの指示通り動いただけ。
その指示が良かったのだろう、結果は狙い違わず想定内。
ほぼすべてが彼女の思惑通りに進んだのだけれど、本当にあれで良かったのだろうか?
「……」
是非はともかく、今さらあの動きを否定するつもりはない。
諸々の事情に精通しているであろうイヴの言葉は決して軽いものじゃないのだから。
が、そうは言っても、イヴなら他にやり様があったのでは?
表面上は王命に背かず、上手く立ち回りつつオルドウ伯を救出する。ササリーシャ嬢の願いを叶える。そんな筋もあったのでは、と考えずにはいられない。
もちろん、彼女に何らかの足枷、制約のようなものが存在したことは分かっている。あの時あの場面で自由に動けなかったのはそのためだということも。
なら、俺が好きに動けばよかったのか?
違うな、それじゃあ駄目だ。
間違いなくほころびが出てしまう。
こっちには情報もなければ知識もないのだから。
ただ、それでも……なんて、それこそ今さらか。
ほんと、ままならないものだな。
「……」
けど、まあ、イヴの口ぶりからすると、枷も長くは続かないはず。
制約さえ消え失せれば、充分に力を発揮できる。
必要なら王城に忍び込むことも辞さないはずだ。
それはそれで、大きな問題になりそうだが。
なんて思考を巡らせがらも足は止まることなく。
気づけばビーチに到着していた。
「……」
とりあえず、こっちではこっちのこと。
今は離島の問題に注力すべきだな。
ザッ、ザッ。
さあ、この砂浜はどうだ?
ここまで特に異状は見られなかったけれど、この先はどうなってる?
ザッ、ザッ、ザッ。
闇の中、砂を踏む足音と波音が耳を撫でていく。
新鮮な潮の香りが鼻孔をくすぐってくる。
そんなビーチの現状は……。
昨日の陥没地は変わらず。
異形戦の痕跡も残ったまま。
ただし、異状はまったく感じられない。
「なら」
群れが来襲した大穴の周りにも歩を進める。
「……」
ここもまた、異状はなし。
あやしい気配の欠片すら感じない。
どうやら、心配する必要はなさそうだ。
が、念のためと周囲を調べていると。
闇が薄らいできた。
大海原の向こうに陽が顔を出し始めている。
「……」
激闘の跡が色濃く残った砂浜なのに、やっぱり美しいな。
思わず、あの日の幸奈の舞が頭に浮かんでしまう。
「さて……」
ついつい長居してしまった。
もう皆も起きているかもしれない。
「戻るとするか」
波打ち際をあとにし、大穴の横を通り過ぎる。
と、その時。
「!?」
この気配?





