第761話 平穏
「あっちで滞在しているのは、湖畔の館って言ったかな?」
「……ああ」
「そこの様子も見たいだろうしね」
「……」
こちらの世界に帰還する直前の湖畔の館。
捕らえていたシャリヌ家の2人を騎士たちに引き渡したあと、オルドウ伯爵に勧められるままに客室に戻ったあの夜。
どうして尋問に加わらなかったのか?
異世界間を渡ってしまったのか?
館に留まり様子を見るという選択肢もあったのに?
離島帰還後もしばらくは消えなかったこの後悔が、また頭の中に蘇ってくる。
「功己は好きにしていいんだよ」
本当にいいのか?
平気なのか?
「いつもいつもわた……みんなのために頑張ってくれてるんだから、ねっ」
「……」
皆が寝静まったあと、こちらの夜半過ぎに世界を渡ればシャリヌ家の間者が忍び込んだ夜の翌朝の館に戻ることができる。そうすれば、伯爵や令嬢ササリーシャ様の安否確認も可能。さらに、もしもの事態に備えることもできるだろう。
そう、危惧すべきは。
間者2人を捕らえられたシャリヌ家の動向。
そして、謎の女性の存在。
「……」
あの夜、目視している俺の面前で闇空に溶けるように消えてしまった彼女。
江良とはまた違う種類の完璧な気配消去、7つのスキル持ち、鑑定不通、さらには樹頭直立という離れ業さえやってのける超絶技量の人物。
対峙している際は殺意や害意といった負の感情をまったく感じなかったが、それゆえ少なからず安堵の思いもあったが。あの不感が彼女の隠蔽技術によるものだとしたら……。
駄目だ。
まったく安心できない。
「深夜に異世界を移動すればこっちの朝には戻れるんでしょ?」
「……」
「みんなと一緒に朝食とれるんでしょ?」
「……ああ」
「だったら、まったく問題ないよね」
今夜に限り、数時間の不在は問題なし。
こっちには警戒すべき危険は存在しない。
それが間違いないのなら……。
「冒険者コーキよ、そなたには助けられてばかりだな」
「いえ、今回の同行は閣下やササリーシャ様の護衛も兼ねていますから、私としては当然のことをしたまでです」
「我らはそうは思っておらぬが、コーキがそう言うのならば……ふむ、その厚意ありがたく受け取っておこう」
威厳に溢れる口元を若干崩し、笑顔らしきものを浮かべる伯爵。
言葉だけでない感謝の思いが伝わってくる。
「お父様、そのような言葉では足りませんわ」
こちらも微笑みながらのササリーシャ嬢。
「分かっておる」
「では?」
「オルドウに戻った際には、特別な褒賞を用意するつもりだ」
「それはコーキ様の働きに見合ったものですか?」
「もちろんだ」
間者捕縛翌日ということで緊張感を持って戻ってきた湖畔の館でのこのやり取り。
案に相違した伯爵と令嬢の空気は何というか……。
「本当ですね?」
「うむ」
よかったぁと笑みを深めるササリーシャ嬢の様子を見ていると。
駄目だな、警戒心と集中力が薄れてしまう。
離島ですり減っていた神経も癒されていくようだ。
「それでは、コーキ様」
「……はい」
「これでよろしいでしょうか?」
良いも悪いも。
「先程申しましたように、私は自分の仕事を」
「それは違いますよ」
「ササリーシャ様?」
「この館にコーキ様をお招きしたのは、警護、護衛のためではございませんから」
彼女の口調には、上品でありながら有無を言わさぬ迫力が備わっている。
さすが伯爵令嬢、大したものだな。
「ですので、オルドウ帰還後には必ず館を訪れてくださいね」
「……承知しました」
湖畔の館での朝食を終え、与えられた客室に戻って身支度を整えること数分。
既に準備は万端、もういつでも出掛けることができる。
ということで、約束の時間までは頭の中を整理して過ごすとしよう。
「とりあえず……」
今朝の館に異状は見られなかった。
シャリヌ家も動いていないようだし、謎の超絶女性の影もなし。
恐れていた事態は起きていない、その兆候も皆無と思われる。
現状は一安心といったところか。
ただし、この先は分からない。
やはり、オルドウ伯が湖畔の館に滞在している間は警戒を怠らない方がいいだろう。
それでも、まあ、一息つける状況ではあるな。
あくまでも、こちらについてのことだが……。
となると、俄然気になってくるのはあちらのこと。
朝までは安全だからと世界を渡ったものの、本当にこれで良かったのかという思いが湧いてくる。
しかし、どうしてこうも簡単に幸奈のもとを離れてしまったのか?
そもそもの話が、選択ミスだったのでは?
やってしまったのでは?
「……」
はあぁぁ。
頭が痛いことだな。
などと嘆いても、現時点ではどうしようもない。
この世界で12時間、あちらの時間で4時間後までは異世界間移動を使えないのだから。
なら……そう、今はオルドウ伯家のことを考えるべき。
夕連亭を所有するコルヌ家やオルセーたちのレンヌ家同様、諜報家門と思われるシャリヌ家。
彼らが何を考えているのか?
狙いは何なのか?
さらに、あの超絶女性だ。
なぜ深夜の同時刻に庭園に現れたのか?
もちろん正解など分からないが、推測はできる。
それを踏まえて備えることも。
であれば……。
「コーキ様、申し訳ございません。出発は今しばらくお待ちいただけないでしょうか?」
予定時刻の10分前。
玄関に足を運んでいた俺に声をかけてきたのは湖畔の館の若いメイド。
「構いませんが……どうかされましたか?」
「それが、その、急な来客がございまして」
外出の予定を遅らせるような来客が突然?
余程大事な客人なんだろうが、この状況でとなると。
「本当に申し訳ございません」
「いえ……」
どうにも穏やかじゃないな。





