立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は…
4 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は…
それから二週間ほど経った。
六月。
梅雨入りの足音が、少しずつ街に近づいていた。
夕方の空は晴れているのに、空気だけが湿っている。
髪のまとまりが悪くなる。
シャツの背中が少し張りつく。
駅前のタイルには、まだ降ってもいない雨の気配だけが薄く残っている。
まだ班長さんとのLINEのやり取りは他人行儀
送れば返ってくる
返せば返ってくる
とはいえ、特別な内容ではない。
手のひらの傷のこと。
天気のこと。
仕事のこと。
猫のこと。
店で交換した、営業用のLINE。
本来なら、もっと簡単だった。
「またお店に来てください」
「またお会いしたいです」
そう送ればいい。
それが仕事だった。
でも、彼女はそれができないまま、何日も経っていた。
店での班長を思い出す。
どうにも居心地が悪そうで、周りに合わせてお酒を飲んで、飲みたいわけでもないのにグラスを空けていた姿。
あの姿を思い浮かべると、店に来てくださいとは書けなかった。
結局、その日の昼休みに送ったのも、無難な言葉だった。
ケガに気を付けて、がんばってください。
送信してから、彼女はスマホを伏せた。
昼の仕事は、決して腰掛けではない。
手は抜けない。
電話を取る。
資料をまとめる。
数字を確認する。
誰かが見落としたところを拾う。
淡々と、間違えないように働く。
夜の仕事も、したいわけではない。
でも、とにかく働くしかなかった。
楽しい時もある。
優しいお客もいる。
笑っていれば済む夜もある。
けれど、それよりも辛いことの方が多い。
スマホが震えた。
通知を見る。
母からだった。
彼女は、その文字を見ただけで小さく息を吐いた。
短い内容。
短いのに、重い。
彼女は感情を乗せないように、同じくらい短い返事を返した。
それから、別の画面を開く。
営業LINE
送る相手をいくつか選ぶ。
客の席につくだけ。
お酒を作るだけ。
笑顔を作るだけ。
私がやらないと。
そう思って、スマホを閉じた。
夜。
ラウンジの空気は、いつも通り華やかだった。
照明はやわらかい。
グラスはきれいに並んでいる。
女の子たちは、昼間とは違う顔で笑っている。
彼女もまた、「澪」として店に立った。
一組目。
印象に残らない客だった。
二組目。
同じように笑った。
三組目。
お酒を作った。
四組目。
相手の話に相槌を打ち、また笑った。
どの席でも、同じように名前を名乗る。
「澪です」
名刺を渡す。
相手の目を見る。
笑う。
また笑う。
それを決まった時間、繰り返す。
そうしているうちに、新しい客が入ってきた。
少し小太りの中年男性。
その横に、すらっと背の高いスーツの男性がいる。
店の空気が、わずかに変わった。
中年男性はよく笑い、声も大きい。
見るからに場慣れしている。
一方で、隣の男性は静かだった。
けれど、ただ静かなだけではない。
姿勢がいい。
立ち方に無駄がない。
スーツの着方も自然で、何か上品な空気をまとっている。
女の子たちが、小さく囁く声が聞こえた。
「あの人、めちゃくちゃかっこいい」
「中年の人、やり手の社長らしいよ」
「それと対等に話してるあの人、何者?」
スタッフに呼ばれた女の子は、明らかに嬉しそうだった。
澪は選ばれなかった。
別の席につく。
また笑顔を作る。
またお酒を作る。
相手が話すことに合わせて、ちょうどいいところで笑う。
何も考えないようにする。
考えると、顔に出るから。
一人。
また一人。
時間はゆっくり進むようで、店の中では妙に早い。
その時、スタッフから声がかかった。
「澪さん」
「はい」
「あの席の方からご指名です」
「えっ」
彼女は一瞬だけ驚いた。
「あ、はい」
店の奥で、他の女の子の声がした。
「えっ、あの席に指名って澪さん? 羨ましい!」
「なんで?」
「チッ」
小さな舌打ちも聞こえたような気がした。
けれど、澪にはほとんど入ってこなかった。
今は、呼ばれた席へ向かうだけ。
お酒と笑顔を作るために。
彼女はグラスを整え、席へ向かった。
「ご指名ありがとうございます」
いつもの笑顔で頭を下げる。
「澪です。よろしくお願いします」
すらっとしたスーツの男性が、すっと手で席を示した。
その動作が、とても自然だった。
「こんばんは、澪さん」
「こんばんは。初めまして、よろしくお願いします」
彼は、少しだけ目を細めた。
「初めまして……ではないんですよね」
彼女は息を止めた。
「すみません」
反射的に謝ってしまった。
これ以上、失礼を重ねてはいけない。
彼女は相手の顔を、もう一度しっかり見た。
整った顔立ち。
落ち着いた目。
周囲の視線を奪うようなスマートな動き。
その記憶を、ゆっくり手繰り寄せる。
夕方の公園。
木の上の猫。
子どもたちの歓声。
枝から落ちかけた小さな体。
そして、それを颯爽と受け止めた、モデルのような男前。
「あっ」
彼女は小さく声を上げた。
「公園で。猫の」
男性は、少し嬉しそうに笑った。
「はい。思い出してもらえて光栄です」
「申し訳ありません」
「いえいえ」
彼は穏やかに首を振る。
「この前とは、場所も雰囲気も違いますから」
「でも、失礼しました」
「本当に気にしないでください」
その声は、店の客が女の子に向けるものとしては、少し丁寧すぎるくらいだった。
澪は、少し迷ってから聞いた。
「あの、それだけで、こんな貴重なお席にご指名いただいたんでしょうか」
彼は少し考えるように目を伏せた。
「はい」
そして、すぐに付け足す。
「でも、それは理由の半分だけです」
「半分、ですか」
「少し、こういう場と、派手な女性が苦手でして」
彼は声を落とした。
それは、店の中で言うには少し正直すぎる言葉だった。
澪は一瞬、他のキャストたちの顔を思い浮かべた。
華やかなドレス。
大きな笑い声。
明るい営業。
強い香水。
高いヒール。
そのどれもが悪いわけではない。
ただ、彼の言うことも少しだけわかった。
澪もまた、小さな声で返した。
「実は、私も少し苦手で……」
二人は、ほとんど同時に笑った。
その笑いは、大きくはない。
けれど、この席の中では少しだけ本物に近かった。
連れの中年男性が、それを見てにやりとした。
「珍しく楽しそうやんか」
スーツの男性は、少しだけ姿勢を正す。
「ええ。楽しんでます」
「珍しく指名したんやね」
「はい」
彼は、あまり迷わずに言った。
「僕の好みだったので」
中年男性が大きな声で笑った。
「いいねえ。今日は俺がおごるから、楽しんでくれ」
周囲の女の子たちが、その笑い声にちらりとこちらを見る。
スーツの男性は、すぐに澪へ視線を戻した。
「すみません。少し下品な言い回しで」
「そんなことないです」
澪は、仕事の笑顔で答えた。
「光栄です」
そう言って笑った。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
派手な夜の中で、派手なものが苦手な人がいた。
それだけで、席の空気が少しだけ楽になった。
その頃。
澪の小さなポーチの中で、スマホが静かに震えた。
LINEの通知が表示される。
けれど、彼女は気づかなかった。
グラスの音と、店内の笑い声と、目の前の男性の穏やかな声に紛れて、その振動は小さく消えた。




