情けも過ぐれば
3 情けも過ぎぐれば
翌週の平日。
班長さんは机に向かっていた。
午前中の現場資料を確認し、午後に回す作業の段取りを頭の中で組み直す。
机の上には図面、作業予定表、チェック済みの書類。
仕事中の班長さんは、店で見せる少し居心地の悪そうな顔とは違っていた。
判断は早い。
説明も的確。
確認するところは細かい。
ただ、その左手のひらには、まだ薄く擦り傷が残っていた。
「手、どうしたんですか?」
書類の束を抱えて話しかけてきたのは、後輩ちゃんだった。
社内では、だいたい誰からもそう呼ばれている。
明るくて、遠慮がない。
けれど仕事は見ている。
班長さんは、自分の手を見た。
「ああ。ちょっと木から……」
後輩ちゃんの眉が上がる。
「登りました?」
「ちょっとだけ」
「何歳ですか?」
「猫がおったんや」
「猫おったら木に登るんですか、今どきの三十代は」
「いや、そうはならんと思う」
「ならん自覚はあるんですね」
後輩ちゃんは、呆れたように息を吐いた。
けれど、その目は少し笑っている。
「まあ、何にしろ気をつけてくださいね」
「はいはい」
「班長がいなくなったら、結構困ります」
班長さんは少しだけ怪しむように後輩ちゃんを見た。
「何が言いたい?」
後輩ちゃんは、抱えていた書類をすっと差し出した。
「この書類の確認お願いします」
「心配するフリして、それをやらせるために来たんか!」
「半分正解です」
「半分なんや」
「班長に見てもらった方が早いし、間違いがないんですよ」
「それを褒め言葉みたいに言うな」
「褒めてます」
「便利に使ってるだけやろ」
「便利で頼れるってことです」
班長さんは小さくため息をつきながら、書類を受け取った。
目を通す。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
赤ペンで数か所に印をつける。
「ここ、日付ずれてる」
「あ、ほんまや」
「こっちは数量、前の版のまま」
「うわ」
「あと、この備考は消してええ。今回関係ない」
「さすがです」
「さすがじゃなくて、見直しなさい」
「はい」
後輩ちゃんは素直に返事をした。
素直ではある。
ただし、懲りるかどうかは別だった。
「あっ、あと」
班長さんは顔を上げた。
「あとなんや。まだ何かあるん?」
「ノド乾きました。休憩室行きましょう」
「仕事と関係ないやん」
「仕事の効率を上げるための水分補給です」
「言い方だけちゃんとしてるな」
「行きましょう」
「俺も?」
「もちろんです」
「なんでや」
「奢ってくれる人が必要なので」
「最初からそれやん」
後輩ちゃんはにこっと笑った。
「やったー」
「まだ行くって言ってへん」
「顔が行くって言ってます」
「俺の顔を読むな」
結局、班長さんは立ち上がった。
「しゃーないやつやなぁ」
「それ、行く時のセリフです」
「うるさい」
二人は休憩室へ向かった。
コーヒーマシンの前で、後輩ちゃんが慣れた手つきでカップを二つ置く。
「班長、ブラックでいいですよね」
「うん」
「私はカフェラテにします」
「奢られる側の方が高いやつ選ぶな」
「甘さは正義です」
「知らんがな」
機械が低い音を立て、コーヒーが注がれる。
一杯目。
二杯目。
後輩ちゃんはカップを一つ取り、班長さんへ渡した。
「はい、どうぞ班長」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
班長さんはカップを受け取ってから、ふと止まった。
「……ってか、奢った俺がなんでお礼言うてんねん」
後輩ちゃんはカフェラテを持って笑った。
「育ちの良さが出てますね」
「あかん。ほんま後輩ちゃんとおったら調子狂うわ」
「褒めてます?」
「褒めてます」
「やった」
「都合ええな」
そんなやりとりをしながら、二人は休憩室の端のテーブルに座った。
昼休み前の休憩室は、少しだけ静かだった。
電子レンジの音もない。
誰かの弁当の匂いもまだない。
自動販売機の低い機械音だけが聞こえる。
班長さんがコーヒーに口をつけた時、スマホが震えた。
LINEの通知。
画面に表示された名前を見て、班長さんは少しだけ動きを止めた。
先日のラウンジの女性からだった。
店では「澪」と名乗っていた人。
普通、この手の連絡は営業LINEだ。
返さずに放っておけば、たいていすぐに来なくなる。
班長さんはそう思っていた。
だからいつもなら開かない。
けれど、今回は指が動いた。
通知を開く。
手のひら、大丈夫ですか?
班長さんは、自分の手のひらを見た。
まだ薄く赤い。
あの日、駅前公園で木から少しずり落ちた時の傷。
それを、彼女は覚えていた。
班長さんは、少し考えてから返信した。
もうほぼ治ってます。
すぐに既読がついた。
そして、返事が来る。
治るの早いですね。
さすが大阪府です。
班長さんは、コーヒーを持ったまま固まった。
シラフで、手のひら大阪府をいじられる。
思っていたより恥ずかしい。
「誰ですか?」
後輩ちゃんが、いつの間にかスマホを覗き込んでいた。
班長さんは慌ててスマホを伏せた。
「コラ。人のスマホ覗いたらあかんやろ。プライバシーが」
「班長さんがプライバシー気にするような時代か〜」
「どんな時代やねん」
「で、何かいいことありました?」
「ないわ」
「その顔で?」
「どの顔や」
「ちょっと恥ずかしそうな顔です」
「してへん」
「してます」
「早よコーヒー飲んで仕事しろ」
後輩ちゃんはカフェラテをすすりながら、にやにやしていた。
「猫と一緒に木に登って、飲み会帰りに新地寄って、会社ではかわいい後輩ちゃんとコーヒー飲む。班長、意外とイベント多いですね」
「多くない」
「私、そういうの嫌いじゃないです」
「何の話や」
「班長が木に登る話です」
「もう登らん」
「猫がおったら?」
班長さんは少しだけ黙った。
後輩ちゃんが勝ち誇った顔をする。
「登りますね」
「……状況による」
「それ、登る人の言い方です」
班長さんはコーヒーを飲んだ。
少し熱かった。
スマホは、伏せたままテーブルの上にある。
その向こう側に、まだ返信の続きを待っているような気配が残っていた。
営業LINE。
そう思えば、ただそれだけのはずだった。
けれど、彼女は手の傷を覚えていた。
水を渡したことも。
手のひら大阪府のことも。
少し飲みたくなさそうにしていたことも。
よう気ぃつくなぁ。
あの時、思わずこぼした言葉を、班長さんはもう一度思い出した。
「班長」
後輩ちゃんが呼ぶ。
「なんや」
「顔、戻ってきてください」
「どこにも行ってへん」
「ちょっと遠く行ってました」
「行ってません」
「はいはい」
後輩ちゃんはカップを置き、にっと笑った。
「じゃあ、戻ったところで、さっきの書類もう一回教えてください」
「結局それか」
「半分正解です」
「もう半分は?」
「ノド乾いたので」
「最初から全部正解やん」
班長さんは呆れながらも、立ち上がった。
休憩室を出る前に、もう一度だけスマホを見た。
返信欄を開く。
何か返そうとして、少し迷う。
結局、短く打った。
大阪府はほぼ完治です。
送ってから、すぐに後悔した。
何を言っているのか、自分でもよくわからない。
後輩ちゃんが横から言う。
「今、何か送りました?」
「送ってない」
「嘘下手ですね」
「早よ行くで」
班長さんはスマホをポケットにしまった。
休憩室の外は、いつもの仕事の空気に戻っていた。
書類。
電話。
確認。
段取り。
その中に、ほんの少しだけ、夜のラウンジの光と、彼女の笑った顔が混じっていた。




