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世間は広いようで

2 世間は広いようで


世間は広いようで、時々、妙に狭い。


駅前公園で猫を助けていた男を見かけてから、三日後。


世間は週末だった。


昼の事務仕事を終えた彼女は、いつものように夜の世界へ向かった。


駅前の空は、まだ少し明るさを残している。

けれど、店に入る頃にはその色も消え、街の光は別の顔になる。


ラウンジの扉を開けると、いつもの匂いがした。


香水。

お酒。

煙草ではない、けれどどこか夜に染みついた空気。

グラスの触れ合う音。

低い笑い声。


彼女は、鏡の前で髪を整えた。


昼の事務員の顔から、夜の顔へ。


店では、彼女は「澪」と呼ばれている。


本当の名前ではない。


それでも、その名前で笑う。

その名前でお酒を作る。

その名前で、相手の話を聞く。


一組目。


印象には残らなかった。


二組目。


それも残らなかった。


三組目、四組目。


名刺を渡し、笑顔を向け、グラスを持ち、また笑う。


よくある夜だった。


誰かが仕事の愚痴を言う。

誰かが自慢話をする。

誰かが名前を聞いて、すぐ忘れる。

誰かが「また来るわ」と言い、その言葉もたいてい残らない。


彼女は、慣れた手つきで水割りを作った。


氷を入れる。

酒を注ぐ。

水を足す。

マドラーで静かに混ぜる。


笑顔を向ける。


また笑う。


その繰り返しの中で、五組目が入ってきた。


印象に残らない集団に見えた。


少し声の大きい会社員たち。

週末の空気に押されるように、店内へ入ってくる。


その中に、彼がいた。


彼女は一瞬、手を止めた。


三日前、駅前公園で木に登っていた男。


猫を助けようとして、最後に少しずり落ちた人。


子どもたちの拍手は、颯爽と猫を受け止めた男前に向いていた。

けれど彼女の中に残っていたのは、木の上で猫を急かさず待っていた男の方だった。


その彼が、今は店のテーブルに座っている。


どうにも居心地が悪そうだった。


周りの同僚たちはよく喋る。


「班長、飲んでます?」


「班長、今日はええやん」


「班長、次これいきましょ」


そのたびに彼は、曖昧に笑ってグラスを持つ。


遠慮がちにお酒を飲み、次にすすめられたお酒をまた飲む。


飲みたいようには見えなかった。


でも断り切るほど器用でもなさそうだった。


「澪さん、七番テーブルついてくれる?」


スタッフに声をかけられた。


彼女は小さく返事をして、七番テーブルへ向かった。


そこは、彼の横だった。


「こんばんは」


彼女はいつもの笑顔で名刺を出した。


「澪です」


彼は顔を上げた。


「あっ」


一瞬、何かに気づいたような顔をした。


けれど、すぐには何も言わない。


「こんばんは」


少しだけ、恥ずかしそうに返す。


彼がグラスへ手を伸ばす。


その手のひらが、照明の下で見えた。


まだ擦り傷が残っている。


三日前、木から降りる時に擦りむいた手。


彼女は、思わず言った。


「手のひら、まだ治らないですね」


彼は、自分の手を見た。


それから彼女を見る。


「あ、はい」


少し遅れて、目を丸くする。


「あっ。あの時の?」


彼は照れくさそうに笑った。


「ここで働いてるんですね」


「はい」


「この前と雰囲気が違うので、わかりませんでした」


彼女は少しだけ笑った。


「でも、気づいてくれてありがとうございます」


それから、彼のグラスを見た。


氷が溶けかけている。

酒の量も、少し多い。


「班長さん、お酒飲みすぎですね」


彼は小さく固まった。


「そんなに酔って見えますか?」


「いえ」


彼女はピッチャーを取り、空いているグラスに水を注いだ。


「そうではなくて、あまり飲みたいように見えなかったので」


グラスを彼の前に置く。


「お出ししました」


彼は水のグラスを見た。


それから、少し困ったように笑う。


「あと、なんで班長って……」


「お連れ様が、先ほどから大きな声で何度も呼んでいたので」


彼は、少しだけ肩をすくめた。


隣の同僚がまた大きな声で笑っている。


「よう気ぃつくなぁ」


彼は、ぼそりと言った。


その声は、感心しているようでもあり、少し恥ずかしそうでもあった。


彼女は、水のグラスを少しだけ彼の方へ押した。


「ええから、班長さんは無理してるだら。水飲んでください」


彼が顔を上げた。


「ん?」


「え?」


彼女も、自分で気づく。


出てしまった。


普段はあまり出さない言葉。


ほんの少しだけ、地元の言葉が混じった。


彼は少しだけ首を傾げる。


「澪さん、どこの人なん?」


「私、何か変でした?」


「いや、変というか」


彼は水を一口飲んだ。


「今の、ちょっと聞き慣れんかったので」


彼女は少しだけ照れた。


「実家は愛知県です」


「愛知」


「はい」


「班長さんは、どちらなんですか?」


「俺ですか」


彼は、自分を指さした。


「今は、ここから割と近くて。チャリ圏内です」


「近いんですね」


「実家は、もう少し南側です」


そう言うと、彼は左手を出した。


手のひらを上に向ける。


「これが大阪府として」


彼女は目を瞬いた。


「大阪府」


「この人差し指と親指のここが、大阪湾ね」


彼は真面目な顔で説明し始めた。


「この店がこの辺。で、俺の家がこの辺」


指先で手のひらを示す。


「実家がこの辺りです」


それを見た同僚が、横から大きな声で茶化した。


「また出た! 班長の手のひら大阪府!」


テーブルが少し笑う。


彼は恥ずかしそうに目を伏せた。


「ええやろ、わかりやすいやろ」


「毎回やってるやん」


「地図がない時は便利やねん」


同僚たちはまた笑った。


彼女は、その手のひらを見ていた。


擦り傷の残る手。


大阪府にされている手。


猫を助ける時、枝を掴んでいた手。


不思議と、嫌な感じはしなかった。


むしろ少しだけ、可笑しかった。


「私の地元も、手のひらでできるかもしれません」


彼が顔を上げた。


「できます?」


「たぶん」


彼女は自分の手を出した。


綺麗に整えられた爪。


夜の店の照明を受けて、ネイルが小さく光る。


彼女は親指の方を示した。


「ここが、私の地元です」


「そこ?」


「はい。これが知多半島です」


彼女は、親指を少し立てるようにして見せた。


「聞いたことあります?」


「あります」


「この親指の、この辺です」


彼女は、ネイルの根元と親指の関節の間あたりを指差した。


「ここの海辺に、鳥居があるんです」


彼は、少しだけ目を細めた。


「海辺に鳥居」


「はい」


彼女は、少しだけ遠くを見るように続けた。


「夕日が沈む時が、一番きれいで」


ラウンジの照明が、ほんの少し遠く感じた。


「嫌なことがあると、よく行ってました」


言ってから、彼女は少しだけしまったと思った。


店で話すには、少しだけ本音に近かった。


彼は、彼女の手を見たまま言った。


「へぇ。海辺に鳥居が……」


少し考えるようにする。


「広島の厳島神社みたいな?」


彼女は小さく笑った。


「いえ、そこまで大きくはないです」


「でも、ええところで育ったんやね」


その言葉に、彼女の表情がほんの少し変わった。


自分でもわかった。


ええところ。


確かに、場所は好きだった。


海も、夕日も、鳥居も。


けれど、そこにある記憶が全部きれいかと聞かれれば、違う。


父のこと。

妹のこと。

家のこと。

継母のこと。


全部が、手のひらの親指のあたりに一緒に乗っている。


「……ええ、まあ」


彼女は笑おうとした。


たぶん、少し失敗した。


彼がそれに気づいた。


「澪さん?」


彼は、彼女の前のグラスを見た。


そして、さっき自分がされたのと同じように、水を注いだ。


「お水、飲んどき」


彼女は少し驚いた。


「え?」


「なんか、しんどそうやから」


彼は水のグラスを彼女へ差し出した。


「無理せんといて」


その言い方は、店の客がキャストへ向けるものとは少し違った。


気を引こうとしているわけでもない。

格好をつけているわけでもない。

優しい言葉を選ぼうとして、少し不器用になっているだけ。


彼女は、水のグラスを受け取った。


「ありがとうございます」


一口飲む。


水は、ただの水だった。


でも、さっきまで作っていた水割りとは違って感じた。


その時、同僚の声が飛んだ。


「班長! 時間です、帰りましょ」


「あ、はい」


彼は少し慌てて立ち上がりかけた。


それから、彼女の方を見た。


「無理せんようにね」


彼女は名刺を渡した時より少しだけ自然に笑った。


「はい。ありがとうございました」


彼は小さく頭を下げた。


「こちらこそ」


そして、印象に残らない集団の五組目は帰っていった。


店の扉が閉まる。


グラスが片づけられる。


別の席から、また呼ばれる。


夜は続く。


彼女は、空いた水のグラスを見た。


そこには、彼が注いでくれた水が少しだけ残っていた。


三日前、駅前公園で猫を助けていた人。


木から少しずり落ちて、手を擦りむいていた人。


手のひらで大阪府を作る人。


飲みたくない酒を断りきれない人。


そして、彼女の変化に気づいて、水を差し出す人。


世間は広いようで、時々、妙に狭い。


彼女はグラスを片づけながら、そう思った。


その夜、彼のことは印象に残った。


五組目の客ではなく。


班長さんとして。

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