第208話 答えを聞かせて
円形体育館の景色が歪んで見える。がしゃり、と音を立てて何かが崩れた。
積み木を蹴飛ばすように、あるいは、完成しかけたパズルを寸前で落としてしまったような、そんな音だ。
音の後にやってくるのは、寒さ。
世界の全てが冷え切ってしまったような震え。心ひとつで現実の感じ方さえ簡単に変容してしまう。
ただあるだけで、ただ感じてしまうだけでなにもかもを台無しにしてしまうもの、それが絶望だ。
そうだ、オレは、今絶望している。『七人の魔人』と相対した時でさえこんな気持ちにはならなかった。もはや決闘どころじゃない。いっそ消えてしまいたいと本気で願うのは、これが、初めてだ。
オレは、オレの秘密を知られたくなかった。
『転生者』であることを、彼女にだけは、アオイにだけは知られたくなかった。
だって、知られてしまったら終わってしまう。アオイとの関係が、オレの、すべてが……、
皮肉なことだと思う。たった数ヶ月前までは原作キャラとの、いや、アオイとの関係は断ち切らないといけない、そんなふうに考えていたっていうのに。
でも、もう、アオイの瞳から目を逸らせない。オレの秘密を知ってなお輝きは澄んだままだった。
「貴方は、蘆屋道孝であって蘆屋道孝ではない。でも、それがなんだというのです?」
まばたきさえできないオレに、アオイは再びそう口にした。
転生者だからなんだ、と。
アオイはオレの目の前にいる。一足一刀、彼女にとっては必殺の間合いだ。
にも関わらず、アオイは刀を下ろしている。彼女らしく、ない。
「うそ、だ。オレは、転生者なんだぞ? それもただの転生者じゃなくて、オタクで、君らのことを知ってて……」
たまらず救いを求めるように言葉が溢れる。
自分で自分を殺したくなるほどに卑怯だ。オレはアオイに救いを求めながらも、まだ嫌われるのが怖くてはっきりと全てを説明できないでいる。
「ええ、そうですね。転生者の中には、いろんな形で未来を知ってるものがいるとか。大抵の場合は、それらの知識と実際の世界や人間にはかなりの差異があるそうですが」
そんなオレに対してアオイはたんたんとらしくもないことを続ける。
彼女はきっと、転生者について調べたんだ。解体局で閲覧を許されている知識だけではなく許されていない情報についても集めたはず。それだけのコネはアオイにもある。
危険な行為だ。興味本位や野次馬根性でそこまでするものはそういない。
では、なんのために? 決まってる。オレのためだ。彼女はオレを知るために、命を懸けた。
「貴方はおそらくいろんなことを知っているのでしょうね。そう考えれば納得できることも多い。わたしについても、当然そうなのでしょうね」
「それは…………」
言葉が出ない。いつもは流ちょうに動くのに、こんな時に限って言い訳が思いつかない。
オレは多くのことを知っている。知るべきでないことさえも、当事者としてではなく第三者として無邪気に楽しんでいた。
それ自体が罪なのか、そうでないのか、オレには分からない。
確かなのは誰であっても一方的に自分のことを知られているというのはひどく『気持ちの悪い』ことであるという事実だけ。
嫌われる。嫌われてしまう。そう思ってしまうと何も言えなかった。
「まあ、それこそそんなことどうでもいいんですよ。貴方が何を知っていて、知らなかったか、なんて」
思わず後ずさる。足が竦んで、歯の根が合わない。息をしようにも肺そのものがつぶれてしまったかのように苦しい。
アオイの言葉に嘘はない。
瞳を見ればわかる。彼女は本心から、オレの事情なんてどうでもいいとそう思っている。
だからこそ、恐ろしくてたまらない。
アオイが、オレを許せないと口にするのならばそれは間違いなく事実であり、真実だ。それがオレには怖くて、怖くて、壊れてしまう。死刑宣告を待つ罪人、それが今のオレだ。
「私にとって大事なのは、私の気持ちだけです。そして、私の気持ちを決めるのは、貴方の行動です」
アオイが一歩詰め寄ってくる。やけに大きく響く心臓の音を押しのけて、彼女の足音が響いた。
視界が狭まっていく。呼吸が浅くなっていく。今はただ逃げ出したかった。
「貴方はいつでも――」
「だ、だめだ! 来ないでくれ!」
そんなオレの衝動に、身体でも脳でもなく『異能』が応えてしまう。
足元の影が盛り上がり、防壁となってアオイを拒む。強度だけならば『塗壁童子』の強化形態である『城壁童子』にも匹敵するが――、
「――私のために、戦っていた。私のために命を懸けていた」
一瞬で破られる。白刃が煌めき、次の瞬間、壁は消え失せた。
アオイはそのまま何気ない足取りで、壁の内側へと入り込んでくる。どうしようもないほどに近く、深く。
脳裏に過るのは、一つの記憶。遠く掠れて闇の中にあってもなお輝く、星の瞬きのような刹那を、オレは思い返す。
ふらりと立ち寄ったゲームショップ。何の気なしに目を止めた棚に、それがあった。
主人公とメインヒロインたちが描かれたよくあるパッケージイラスト。いつもなら軽く見過ごしてしまうのに、その時だけはどうしてだか、足が止まった。
でも今はその理由が分かる。
一目惚れだったんだ。パッケージの右上で刀を構えた黒髪の彼女に。
ああ、畜生。どうして今、こんなことを思い出すんだ。これじゃ本当に惚れた弱みじゃないか。
「私にとって重要なのは、それだけです。貴方がそれをどう思おうが、そこにどんな動機があろうが、知ったことではないのです」
「そんなんじゃ、そんなじゃないんだ。オレは君に釣り合う男じゃ……っ!」
足がもつれて、情けなく尻もちをつく。
もう、逃げられない。抗おうにも、とっくにこの心は彼女の虜になっていた。
「それは私の決めること。夫とはいえそこまで立ち入るのは感心しませんよ」
「オレは、オレは転生者だ! 前世のオレは、ただのオタクだ……! この世界に転生してからだって、オレは……!」
「だから、関係ないんですよ、そんなことは」
じれったいと言わんばかりにアオイは息を吐く。
そのまま手の焼ける子供をあやすような、あるいは、デートに遅れてきた恋人を咎めるような、そんな表情を浮かべた。
……自分の現金さ、軽薄さに反吐が出る。あれだけ拘っていたくせに、あれだけ恐れていたくせに、彼女の表情一つでこんなにも救われている。
「貴方は、私を救った。ここにいる貴方以外の誰かでも、知りもしない前世の誰かでもない。私の目の前にいる、蘆屋道孝が私を救ったのです」
そういってほほ笑み、アオイは「私以外にもそうしているのは気に食いませんが」と付け加える。
そんな彼女らしい仕草に、オレもつられてこう思ってしまう。
オレは、こんなオレでもいいのかもしれない、と。
「私にとって大事なのは、そのことだけ。貴方が私を倒したあの瞬間から、私は貴方に恋していたのです」
アオイの頬に、赤が浮かぶ。
普段はもっと直接的な言葉を使うくせに、妻だなんだと言ってるくせに、この瞬間のアオイはまるきっり17歳の乙女で、破壊力抜群すぎた。
こんなのは、ずるい。こんな顔をされたら、何も言えなくなる。
「貴方の秘密を知っています。貴方が転生者だということを知っています。でも、知りたいのは貴方の心。貴方の想い。ただそれだけ。なぜならば――」
綺麗な右手がオレに差し出される。花のように指が開いて、オレを待っていた。
アオイ本人は鍛えているせいで硬いとかごついとかそんなことを言うけれど、オレはこの指が好きだ。
感触も、色も、形も、匂いも、あり方もなにもかもが好きだ。
ああ、本当にオレは、アオイのことが――、
「私は、貴方が好きです。愛しています、道孝」
そうして、アオイはなんでもないありふれた告白で、人でなしのオレを、救ってみせたのだった。




