7. 卓をひっくり返す
客の怒鳴り声に、ナハトの顔が一瞬だけそっちへ流れた。
やっと隙を見せた。
今だ。
ナハトの左手が、懐の親板を握り込もうとした。
その手首を、掴んだ。
「……え?」
ナハトが、自分の手首と俺の顔を見比べる。さっきまで卓の向こうにいたはずの俺が、隣に立っている。
「これ、もらうぞ」
指を一本ずつ開かせて、親板を取り上げた。思ったより軽い。表の石が、ちかちかと光っている。
握ったら、まずいんだよな。
両手で持つのも怖いので、指先でつまんで、そっと懐にしまった。
「な、何をぼさっとしている! やれ!」
ナハトの声が裏返った。
客たちが悲鳴を上げて壁際へ逃げ、用心棒たちが一斉に飛びかかってくる。
目の前の卓の縁に、手をかけた。
1年前、俺の全部をひっくり返した卓だ。
今度は、俺がひっくり返す番だ。
「よっ」
卓が宙を舞った。
硬貨とサイコロと酒の杯をまき散らしながら、突っ込んできた用心棒たちの上にまとめて落ちる。下敷きになった5、6人が、うめき声を上げて動かなくなった。
飛んできた酒の杯が、後ろのマレに当たりそうだと振り向いた。
だが、何かに弾かれたように落ちた、ように見えた。
気のせいか。
残りの男たちが、足を止めた。
「卓って、こんなに軽かったっけ」
誰も答えなかった。
奥にいたローブの男が、杖を構えた。
「下がれ! 焼き払う!」
杖の先に、赤い光が集まっていく。熱い風が、頬を撫でた。
魔法か。あれはまずい。後ろにマレがいる。
どうする、と思った瞬間。
足が、勝手に動いた。
右へ、左へ。腕がくねくねと波打ち、腰がぐるりと回る。祭りの酔っ払いとは違う、見たこともない妙な踊りだ。
「またかよ!」
「ノアさん!?」
止まらない。俺の体は、魔法使いに向かって、くねくねと踊り続けた。
魔法使いの顔が、引きつった。
杖の先の赤い光が、ちらちらと揺れて、細くなっていく。
「な……魔力が、抜けて……」
光が、ぷすんと消えた。
魔法使いは、杖を握ったまま膝から崩れ落ちた。
俺の体は、最後にぴたりと止まった。静まり返った賭場の真ん中で、片足立ちのまま。
マレが、口を押さえながら言った。
「〈不思議な踊り〉……です。見ている相手の魔力を、吸ってる……のかも。あと、私の魔力は今のでおしまいです」
「助かった。けど恥ずかしい」
残りの用心棒たちが、顔を見合わせた。
卓をひっくり返し、踊って魔法を消す男。
1人が武器を捨てて逃げ出すと、残りも我先にと続いた。
ナハトも、その流れに紛れて出口へ走っていた。
追いかけるのも面倒だ。
手の中に、さっきの割れたサイコロの欠片が残っていた。
銅貨はもったいない。
ピン、と弾く。
欠片はナハトの後頭部にこつんと当たった。ナハトはそのまま前のめりに転び、床を滑って、扉の前で止まった。
白目をむいている。
壁際の客の誰かが、叫んだ。
「勝ったのは兄ちゃんだ! 払わせろ!」
「そうだ、払え!」
声が、あちこちから上がる。
ナハトの腰から、鍵束を外した。重い鉄の鍵が、いくつもぶら下がっている。
それから、奥の金庫部屋を覗いた。棚に、金貨の詰まった袋が並んでいる。その横には、分厚い帳簿が何冊も。金になりそうにないので、そっちは放っておいた。
ひとつ取って、中を数えた。
「100枚と、もう100枚。賭けは賭けだからな」
2袋目を取った時、マレがじっと俺を見ていた。
「勝った分だけだぞ。ちゃんと数えた」
「……はい」
作業棟は、賭場の裏手にあった。
石造りの細長い建物で、窓には鉄格子がはまっている。入口の見張りは、俺の手の鍵束と、懐からはみ出した親板を見るなり、槍を放り出して逃げていった。
話が早くて助かる。
鍵を回す。重い扉が、軋みながら開いた。
中は、薄暗かった。
壁際に、人がずらりと座り込んでいる。みんな首に鉄の輪。疲れきった顔が、一斉にこちらを向いた。
その奥で、誰かが、寝ている男の額に濡れた布を当てていた。
髪を後ろでまとめている。袖をまくった腕は、前よりずっと細い。
でも、背中を見ただけで分かった。
その人が、振り返った。
目が合った。
布を持ったまま、動かなくなる。
俺も、動けなかった。
何を言えばいいか、ずっと考えていた。謝るのか。礼を言うのか。帰ってきたと言うのか。
何ひとつ、出てこない。
リゼの唇が、震えた。
「……何やってんの、バカ」
1年前と、同じ言葉だった。
声だけが、あの時より、ずっと震えていた。




