第5話 馬より速い
ハルカまで、丸一日。
ただしそれは、馬が休みながら歩いた場合の話だ。
日が傾く頃には、荷馬車の馬が二頭ともへばっていた。九人と見張り二人を乗せた荷台は重い。足取りが、目に見えて遅くなっていく。
このままじゃ、着くのは明日の夕方だ。
ぎりぎりすぎる。
「馬、外してくれ」
御者台の男が、きょとんとした。
「外して、どうするんです」
「俺が引く」
荷台が静まり返った。
馬を外し、荷馬車の前の棒を両脇に抱える。後ろには、追手四人を積んだ荷車を縄でつないだ。
足を踏ん張る。
動いた。
「よし、行くぞ」
「えっ、ちょ、えええ!?」
荷台から悲鳴が上がった。
かまわず走り出す。歩くより、走るほうが早い。
砂漠の砂に比べたら、硬い道は走りやすい。踏み込むたびに、地面が足を押し返してくれる。
荷台がガタガタ揺れる。マレが御者台の柱にしがみついている。
後ろの荷車は跳ね上がり、追手の四人は落ちそうだ。
落ちたら落ちたでいいか。緩めかけた速度を、逆に上げた。
「ノアさん! 速い! 速いです!」
「舌噛むぞ」
横を見ると、ヒゲチョロが並んで走っていた。
身軽になった荷馬車の馬二頭は、とっくに後ろで小さくなっている。なのに、こいつはぴったりついてくる。
目が合った。
鼻で笑われた。
「上等だ」
足を速める。ヒゲチョロも速める。
「張り合わないでください!」
マレの声が、風に流れていった。
月が真上に来ても、俺は走っていた。
荷台は静かになっていた。最初は悲鳴を上げていた人たちも、揺れに慣れたのか疲れたのか、身を寄せ合って眠っている。
あの小さな女の子だけが、荷台の縁から顔を出していた。
「おにいちゃん、つかれないの?」
「砂漠で毎日、サボテンタ担いでたからな」
「さぼてんた?」
「緑の、棘のやつ」
女の子は首を傾げて、引っ込んだ。
砂漠で鍛えると、こうなるもんだ。たぶん。
空が白み始めた頃、丘の向こうに低い壁と屋根が見えた。
ハルカだ。
一年ぶりの町は、思っていたより小さく見えた。
門の前で荷馬車を下ろす。腕を回すと、肩がぽきっと鳴った。さすがに少し疲れた。
門番が、槍を構えたまま固まっていた。
見覚えのある顔だ。昔、俺が仕事を探して門を出入りするたびに、からかってきた奴だった。
「……魔物かと思った」
門番の声が裏返っていた。
「土煙上げて、突っ込んでくるから。人が、荷馬車を引いて……」
そこで、俺の顔に気づいたらしい。
「ノア? 遊び人の、ノアか?」
「ああ。通してくれ」
門番は荷台を見た。首に赤い跡のある九人。縛られた男たち。幌に描かれた、夜杯商会の杯の印。
顔から、血の気が引いていった。
「お前……それ、夜杯の荷馬車だろ。こんなことして、大丈夫なのか」
「こいつら、首輪つけられて売られるところだったんだ」
「知ってるよ、そんなこと」
門番は声を落とした。
「でも書類の上じゃ、全員伯爵様の裁きで決まった犯罪奴隷だ。夜杯は伯爵様とつながってる。牢屋行きは、お前のほうだぞ」
知るか、と言いたいところだが、一応覚えておく。
「縛った奴らは置いていく。夜杯の手下だ」
「詰所の牢に入れとくだけだぞ。夜杯の連中が引き取りに来たら、俺には止められねえ」
それでいい。どうせ時間はない。
門番は少し迷ってから、黙って門を開けた。
通り過ぎる時、小さな声が聞こえた。
「……死にたいのかよ」
九人は、エダ婆さんの治療院へ連れていくことにした。リゼの働いていた場所だ。あそこなら手当てもできる。
荷馬車を表に止め、九人をマレに任せて、俺は裏口へ回った。
治療院の裏口は、一年前と同じだった。洗った布の入った桶が、二つ並んでいる。
扉を叩く前に、中から声がした。
「朝っぱらから誰だい。急患なら表から回りな」
エダ婆さんだ。
扉を開けた。
婆さんは、薬草を刻む手を止めた。
俺の顔を見て、しばらく動かなかった。
それから、手元の木のお玉を掴んだ。
ゴン。
頭に、いい音がした。
「一年」
ゴン。
「一年だよ、このバカ」
痛くはない。痛くはないが、三発目は当たらなかった。
お玉が、俺の頭の上で止まった。
婆さんの手が、震えていた。
「……リゼは」
俺の口から出た声は、かすれていた。
「リゼは、どこにいる」
婆さんはお玉を下ろし、俺を睨みつけた。
「夜杯の作業棟さ。あの子は、お前の借金を背負って自分から行ったんだよ。あたしが止めるのも聞かずにね」
自分から。
あいつらしい。
「明日の夜、地下の連中ごと売られるって聞いた」
「……どこでそれを」
「途中で拾った人たちから」
婆さんの顔色が変わった。
「なら、もう時間がない。作業棟の鍵を持ってるのは、夜杯の元締めのナハトだけだ。あいつは毎晩、自分の賭場にいる」
ナハト。
一年前、俺の目の前でサイコロを振った男だ。
「賭場に行く」
「お前、またギャンブルする気かい」
婆さんがお玉を振り上げる。
「違えよ」
全部ひっくり返されて、笑われた、あの卓を思い出す。
「今度は、取り返しに行くんだ」
――――
手下の報告を聞いて、ナハトは帳簿から顔を上げた。
「遊び人のノアが、戻ってきた?」
しばらく黙ってから、細い目を、さらに細める。
「それは、良い。今度はどんな風に楽しませてくれるでしょうか」




