第46話 俺の金が
船は、思ってたよりずっと小さかった。
帆が一枚。屋根もない。俺たち三人と爺さんで、もういっぱいだ。
これで、行って戻った船がない海へ出るのか。
「文句あんのか」
ガントが、縄をほどきながら言った。
ゆうべの酒の匂いは、もうしなかった。手つきに、迷いがない。
ヒゲチョロは、港の厩に預けてきた。
リゼが鼻面をなでて「帰ったら、すぐ迎えに来るからね」と言うと、甘えた声を出して肩に顔をこすりつけていた。
俺が手を出したら、尻を向けられた。
あいつ、帰ったら覚えてろよ。
港が見えなくなったころ、腹の底がぐらりと揺れた。
……なんだ、これ。
頭が重い。喉の奥から、朝の焼き魚が戻ってこようとする。
「……おえ」
「ちょっと、こっちに向かって吐かないでよ」
リゼが、俺からいちばん遠い船べりへ移った。
「船酔いですね」
マレは平気な顔で、盤を膝に抱えている。
「レベル高くても、酔うんですね……」
サンドワームに丸呑みされても、平気だったのに。
ふと、思いついた。首輪の呪いが治るんだ。これだって。
口を開けて、歌った。下手くそな歌が、波の上を流れていく。
腹の揺れが、すうっと引いた。
「……治った」
歌うのをやめた。
ぐらり。
「……戻った」
「うるせえ!」
舵を握ったガントが怒鳴った。
「歌うか吐くか、どっちかにしろ!」
リゼが、船べりに突っ伏して肩を震わせていた。笑ってやがる。
結局、小声で歌い続けた。
昼過ぎ、マレが海を指さした。
「ノアさん、あれ」
波の間から、銀色の背びれが突き出ていた。一つ、二つ……数えるのをやめた。
水面から、魚が跳ねた。
腕くらいの長さで、口に細い牙がびっしり並んでいる。そいつが、まっすぐ船に飛びこんでくる。
つかんで、海に投げ返した。
次が来た。その次も来た。
「〈牙飛魚〉です! 群れで船を襲う魔物で……でも、こんなに」
「なんでこんなに寄ってくるんだ!」
ガントが、舵にしがみついたまま叫んだ。
「この海で四十年、船に乗ってきたが、こんなのは初めてだ!」
殴るのは簡単だ。けど、船べりで踏ん張ると、船がぎしりと鳴る。
「踏むな! 底が抜ける!」
この船が沈んだら、島どころじゃねえ。
群れの奥で、水面がひときわ大きく盛り上がった。
でかいのがいる。他のの三倍はある背びれだ。あいつが、群れをけしかけてる。
手の届く距離じゃない。
懐を探る。指に当たったのは、銅貨だった。
……仕方ねえ。
親指で、弾いた。
ピン。
銅貨は一直線に飛んで、でかい背びれの根元に吸いこまれた。
水しぶきが上がって、背びれが沈んだ。
銅貨も、沈んだ。
「……俺の銅貨」
群れは、まだ来る。でかいのも、一匹じゃなかった。
ピン。ピン。ピン。
一枚弾くたびに、一匹沈む。一枚弾くたびに、一枚沈む。
「俺の金が……」
「泣きながら弾かないでよ」
「泣いてねえ」
一匹が、マレの顔めがけて跳んだ。
リゼがマレを抱き寄せる。牙が届く手前で、魚は見えない壁に当たったみたいに弾かれて、海へ落ちた。
リゼが、自分の指の白い指輪をちらっと見た。
懐の銅貨が、尽きた。
次に指に当たったのは、銀貨だった。
……銀貨だぞ。
ピン。
「ああ……」
銀貨が、きらきらしながら沈んでいった。きれいだった。腹が立つくらい。
銀貨を二枚沈めたところで、群れはようやく引いていった。
銅貨十一枚、銀貨二枚。
海の底で、俺の金が眠っている。
「金貨は投げなかったのね」
「投げるわけねえだろ」
リゼは、ふうん、と言って、俺の胸のあたりに目をやった。
「……あんたの周りって、いつも、ああいうのが寄ってくるわよね」
「狩りが楽でいいだろ」
リゼは、何も言わなかった。
夜になると、海は嘘みたいに静かになった。
マレが、船の真ん中で〈星読みの盤〉を膝に乗せていた。盤の輪を回しては、空と写しを見比べている。
「嬢ちゃん、星が読めるのか」
舵のそばで、ガントが言った。
「盤のおかげです。師匠にもらいました」
マレは、写しの一点を指で押さえた。
「明日の昼には、島が見えるはずです」
「……潮の読みとも、合ってる」
ガントは、マレをしばらく見て、それきり黙った。
その夜も、マレを真ん中にして寝た。
「……夜のほうが静かってのは、どういうこった」
朝、ガントが首をひねっていた。
「昼間あれだけ寄ってきて、一匹も来やしねえ」
「なんででしょうね」
リゼとマレが、顔を見合わせていた。
二日目の昼、島が見えた。
海から、灰色の崖がそのまま突き立っている。浜は、どこにもない。
崖の上を、大きな鳥の影が何羽も回っていた。
ガントが、崖の割れ目へ船首を向けた。
割れ目の中は、波と岩だらけだった。白く砕ける波の下に、黒い岩の頭がのぞいては消える。
「右だ。……いや、待て」
ガントは波を三つ見送ってから、舵を切った。
船の腹を、岩がかすめていく。酒場で笑われていた爺さんとは、別人だった。
歌うのを忘れていた。気持ち悪いのも、忘れていた。
ごん、と船が揺れた。
波に押されて、横から岩に押しつけられている。船の腹が、みしみしと軋んだ。
「ノア! 押せ!」
船べりから身を乗り出して、岩に手をついた。ぐっと押す。
船が、波に逆らって岩から離れた。
ガントが、俺の手と岩を見比べていた。岩には、手の形にひびが入っていた。
頭の上で、甲高い声がした。
見上げると、崖の上から大きな影が落ちてくる。
鷹だ。翼を広げたら、帆より広い。
鉤爪が、帆柱めがけて降ってきた。
横から、はたいた。
鷹は空中でくるくる回って、崖の途中で体勢を立て直した。そのまま、また舞い上がる。
一羽じゃない。三羽、四羽。
「こいつらだ……」
ガントの声が、裏返った。
「十年前も、こいつらに……」
その先は、言わなかった。
鷹が、入れ替わりに降ってくる。はたくたびに崖まで吹っ飛んで、また戻ってくる。
きりがねえ。崖の上までは、船から届かない。
リゼがマレを抱えこんで、身を低くしている。
「北の崖です! 真ん中より、少し西!」
マレが、写しを握りしめて叫んだ。
崖を見る。灰色の壁の一か所だけ、墨を流したみたいに黒ずんでいた。
「爺さん、あそこだ!」
ガントの手が、舵の上で止まった。
顔が、真っ白だった。
黒い岩が、近づいてくる。どう見ても、ただの岩だ。
「……十年前は、四人で来たんだ」
かすれた声だった。
頭の上で、また鷹が鳴いた。
ガントが、歯のない口を食いしばった。
「つかまってろ!」
舵が、切られた。
船首が、黒い岩へまっすぐ突っこむ。
ぶつかる。目をつぶりかけた瞬間、岩が、ゆらりと揺れた。
水面に映った影みたいに、岩が船首を飲みこんでいく。
帆が消える。リゼの背中が消える。
そして、目の前が真っ暗になった。




