第39話 元気になりすぎだろ
腹が、減った。
三回も吸われたせいか、胃の底まで空っぽな気がする。
森の中は、もう真っ暗だった。ティルの指先の小さな火を頼りに、来た道を戻る。
森の中ほどを過ぎたころだった。
背中のほうで、空気がぴんと張った。振り返ると、通ってきた木々の奥が、ぼんやりかすんでいる。
かすみが晴れると、何の変哲もない森があった。あの木のあったほうも、ただの木が並んでいるだけだ。
「……結界が、修復されたみたいだね」
ティルが、かすんでいたあたりを見ていた。目つきが、少し変わっていた。
「あそこにあるって分かってても、これは解けそうにないよ」
串焼きが食いてえ。この際、サボテンタでもいい。
サボテンタ。
ヒゲチョロ。
あいつ、村の柵につないだままだ。
夜は、蚤が動く。馬だって吸われる。
気づいたら、走っていた。
「ちょっと、ノア!」
「先に行く!」
後ろで、ティルの声がした。
「元気だねえ。三回も吸われたのに」
別に、心配なわけじゃねえ。
あいつが干からびたら、リゼが泣く。それだけだ。
腹が減りすぎて、足に力が入らない。それでも止まらなかった。
村に、灯りがついていた。
一軒や二軒じゃない。どの家の窓も明るい。通りに人が出て、しゃべって、笑っている。
ゆうべまで、集会所に寝かされていた連中だ。
空き家の裏へ回った。
柵に、縄だけが垂れていた。
ヒゲチョロが、いない。
息が止まった。
「こらあ! うちの菜っ葉!」
隣の畑から、怒鳴り声がした。
栗毛の馬が、口いっぱいに葉っぱをくわえて逃げ回っている。その後ろを、太ったおかみが箒を振り回して追いかけていた。
ヒゲチョロだ。
縄は、ほどいてあった。器用な奴だ。
……なんだ、元気じゃねえか。
膝から力が抜けた。腹が減ってるせいだ。たぶん。
おかみの顔には、見覚えがあった。ゆうべ、集会所の隅で起き上がれずにいた人だ。リゼが、何度も水を飲ませていた。
その人が、箒を振り回して、馬と追いかけっこをしている。
「元気になりすぎだろ……」
ヒゲチョロが俺に気づいて、駆けてきた。菜っ葉をくわえたまま、俺の後ろに回る。
「あんたの馬かい!」
「……違う。リゼの馬だ」
「誰のでもいいよ! 菜っ葉三把!」
おかみが、手を突き出した。
菜っ葉三把。銅貨にして、六枚くらいか。
俺の銅貨だぞ。食ったのはこいつだ。
振り返ると、ヒゲチョロは最後の一枚を飲み込んで、鼻で笑った。
「……銅貨六枚でいいか」
「冗談だよ」
おかみは、箒を下ろした。
「あんた、ゆうべ集会所で大いびきかいてた子だろ。命の恩人から、菜っ葉代なんか取れるかい」
「……じゃあ、なんで怒鳴ったんだよ」
「菜っ葉は菜っ葉だよ!」
わけが分からん。
でも、銅貨六枚は浮いた。
リゼとティルが追いついたころには、村の連中が集まってきていた。
白いひげの村長が、杖もつかずに歩いてくる。おととい会った時は、杖にすがって、一歩ごとに休んでいた。
村長は、震える声で言った。
「日が沈むころ、急に、皆が起き上がったんだ。寝たきりだった者も、熱でうなされていた者も、一度に」
リゼの肩が、小さく動いた。
ティルが、ちらっとリゼを見る。
リゼは、何も言わなかった。
ガキが一人、首をぼりぼりかいていた。
ティルがひょいと手を伸ばし、ガキの首から何かをつまむ。指の間で、黒い粒がもがいていた。
「……ただの蚤だね」
ティルは、それを指でぷちっと潰した。
「木から切れて、ただの虫に戻ったんだ。かゆいだけだよ」
「かゆいのは、やだ」
「それは、僕にもどうにもできないねえ」
その夜、集会所で宴になった。
村中の鍋が持ち寄られた。芋の煮込み、豆の粥、山鳥の丸焼き。ゆうべまで寝込んでいた連中が作ったとは思えない量だ。
山鳥の脚を二本、豆の粥を三杯。芋は、数えるのをやめた。
うまい。人が作った飯は、うまい。
ヒゲチョロは集会所の外で、ガキどもに菜っ葉をもらっていた。さっきのおかみの畑の分らしい。
リゼは、隅に座っていた。
椀を持ったまま、口をつけていない。
リゼの目の先に、女が一人いた。
小さいガキを膝に乗せて、隣の女としゃべっている。笑っていた。ちゃんと笑っていた。
ただ、ときどき、空いた隣の席を見る。
「あの子の旦那はね、間に合わなかったんだよ」
隣のおかみが、芋をほおばったまま言った。
「十日前さ。……あんたらのせいじゃないよ。言っとくけどね」
リゼが、椀を置いた。
ガキの頃から知ってる。リゼが怒りも笑いもしない時は、一人で何か抱えてる時だ。
何か言ってやりたかった。何を言えばいいのか、分からなかった。
その時、足が動いた。
おい。
待て。
俺は立ち上がっていた。立ち上がったつもりはない。腕が上がる。腰が回る。足が、勝手に床を踏み鳴らす。
踊っている。
「……なに、あれ」
誰かが言った。
知るか。俺が聞きてえ。
止まれ。止まれって。
山鳥の脚をくわえたまま、右へ三歩、左へ三歩。くるっと回って、手を叩く。
集会所が、しんとした。村長が、口を開けたまま固まっている。
最初に笑ったのは、膝の上のガキだった。
きゃっきゃっと、手を叩いて笑う。
それから、母親が吹き出した。笑いながら、目からぼろぼろこぼしている。泣いてるのか笑ってるのか、分からない顔だった。
隣の女も笑った。おかみが笑った。誰かが、俺の足に合わせて手を叩き始めた。
止まらねえ。
手拍子が増えると、足まで調子に乗る。最悪だ。
ティルが、腹を抱えて床を叩いていた。
「なにそれ、なにそれ! 五十年生きてきて、初めて見た!」
リゼを見た。
リゼは、口を押さえていた。
肩が震えている。
「……バカ」
小さな声だった。
それから、リゼは笑った。目の端をぬぐいながら、声を上げて笑った。
集会所の空気が、少しだけ軽くなった気がした。
気のせいかもしれない。
足が止まったのは、山鳥の脚を食い終わったころだった。
宴が終わって、集会所の外に出た。
夜風が気持ちいい。ヒゲチョロは、もらいすぎた菜っ葉で腹をふくらませて、柵の横で寝ていた。
いい気なもんだ。
リゼが、隣に座った。ティルは窓枠に腰かけて、足をぶらぶらさせている。
「なあ」
「なに」
「あの柱の前で、誰としゃべってたんだ」
リゼは、少し黙った。
「……神様」
「は?」
「医療の神様。シャミオカラー。お礼に、村の人を元気にしてくれたの」
「……神様って、しゃべるのか」
「しゃべったわよ。人手不足なんですって」
「神様が?」
「神様が」
わけが分からん。
でも、リゼはこういう嘘はつかない。
「何でも答えてくれるって言うから、あんたのこと聞いたのよ」
「俺?」
「あのバカは、どうなってるんですかって」
「ひでえ聞き方だな」
「遊び人、だって」
「知ってるよ」
「それと」
リゼは、膝を抱えた。
「嫌いなんだって。遊び人」
「会ったこともねえのに!?」
窓枠のティルが、また笑い出した。
神様に嫌われる覚えはない。ねえよな。たぶん。
……賭場には、ちょっと行ったけど。
「ねえ」
ティルが、笑いすぎて出た涙をふいた。
「何でも答えてくれたんでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、僕の呪いのことは、聞いてくれた?」
リゼが、固まった。
「……あ」




