37. 三つ数える前に
リゼが、動かない。
目の前で手を振った。まばたきひとつしない。
「おい」
肩をつかんで揺すると、リゼはやっと、こっちを見た。
「……なに?」
「なに、じゃねえよ。立ったまま寝てたぞ」
「寝てないわよ」
リゼは、彫り物をもう一度だけ見上げた。それから、首を振った。
「行くわよ」
いつものリゼの声だった。
坂の下は、広間になっていた。
天井も壁も、根だ。何百本もの根が、絡まりながら奥へ伸びている。壁には、拳くらいのくぼみがびっしりと並んでいて、一つ一つに、丸いものが収まっていた。
「……種だね」
ティルがつぶやいた。
どれも、灰色にくすんでいた。根も、灰色だった。触ると、かさかさに乾いている。
その根に、黒いのが張りついていた。
一匹じゃない。馬よりでかいのが、あっちにも、こっちにも。根に細い足を食いこませて、じっと動かない。
吸ってやがる。
一匹が、ゆっくり向きを変えた。それから、全部が動いた。
来る。俺のほうへ。
ティルが、手のひらの火をふくらませた。
「待って!」
リゼが、ティルの腕をつかんだ。
「それ、木の根よ。燃えたら、上まで全部燃えるわ」
ティルは、まわりを見回した。壁も、天井も、床も、根だ。
「……じゃあ僕、何すればいいの」
「下がってて!」
俺は、前に出た。
「お前もだ、リゼ。下がってろ」
一匹目が跳んだ。真正面から、殴った。黒い体がぐしゃりとへこんで、広間の奥まで飛んでいく。
二匹目は、横から来た。蹴る。三匹目が、肩に食らいついた。
すうっと、力が抜ける。
引きはがして、床に叩きつけた。
後ろで、白い光がはじけた。振り返ると、一匹がリゼとティルに跳びかかって、膜にはじかれていた。
ぎし、と、きしむような音がした。
膜からだった。
前を向く。まだ来る。
何匹潰したか、途中で数えるのをやめた。
最後の一匹を床に沈めた時、膝が笑っていた。立っていられなくて、根に背中をあずけた。
リゼが走ってきて、首の後ろに手のひらを当てた。
さっきとは、違った。
じんわり、じゃない。熱いくらいのものが、首の後ろから体じゅうへ流れこんでくる。冷えきっていた指先まで、すっと戻った。
「……さっきより効くな」
リゼは、自分の手を見ていた。
「……なんで?」
俺に聞くなよ。
体が戻ったら、今度はまぶたが重くなった。背中の根が、ひんやりして気持ちいい。
「ちょっと、ノア」
リゼの声が、遠い。
「こんなとこで寝るんじゃないわよ、バカ……」
知るか。
眠いもんは、眠い。
ノアは、本当に寝てしまった。
根にもたれて、口を半開きにして。
リゼは肩をつかんで揺すろうとして、手を止めた。
広間の奥で、かさかさと音がしていた。黒いのが、まだ何匹か残っている。根に張りついたまま、こっちを向いていた。
来ない。
ある線から先へ、一匹も入ってこない。ゆうべの、村の柵と同じだった。
「……出てるね」
ティルが、ノアの寝顔を見下ろした。
「透明なの。あの夜と同じやつ」
それだけではなかった。
ノアがもたれている根が、色を変えはじめていた。灰色が、ノアの背中のあたりから、ゆっくりと緑に戻っていく。頭のそばのくぼみで、くすんでいた種が、ぽうっと光った。
一つ。二つ。ノアのまわりから、順に。
リゼは、息をのんだ。
「……木が、元気になってる」
ティルが、天井を見上げた。目つきが変わっていた。
「結界も、ちょっと締まったね。ほんのちょっとだけど」
「村の人と、同じなのよ」
リゼは、広間の奥を見た。
根という根が、一つの方へ向かって伸びている。その先で、何かが、どくん、どくん、と脈を打っていた。
「真ん中は、あっちね」
「たぶんね。でも、すごく大きいのがいるよ。ここからでも分かる」
リゼは、少しだけ考えた。
それから、ノアの頬をぺちぺちと叩いた。
「起きて」
「……ん」
「起きなさい。あんたが、あそこで寝るのよ」
ノアが、うっすらと目を開けた。
「……あそこで?」
根の道の先に、木の芯があった。
広間よりも、ずっと広い。真ん中で、何千本もの根が寄り集まって、柱みたいな一本になっている。その柱が、どくん、と脈打つたびに、まわりの根がかすかに光る。光は弱くて、今にも消えそうだった。
その柱に、家が一軒、張りついていた。
家じゃなかった。黒くて、平べったくて、細い足が何十本も生えている。足の一本一本が、柱に深く刺さっていた。
「……でけえ」
「あれの横で、寝て」
リゼが、真顔で言った。
「寝ろって言われると、寝られねえんだよ」
「ゆうべは寝たでしょ」
「芋食ったからだ」
柱のまわりを、黒いのが跳ね回っていた。大型も、中型も。俺に気づいて、一斉にこっちを向く。
「ティル」
リゼが言った。
「根は燃やさないで。跳んでるのだけ」
「細かいのは苦手だって、言ってるのに」
ティルはため息をついて、指を一本立てた。
指先に、豆粒ほどの火がともった。
跳んできた中型が、宙で燃えた。次も。その次も。ティルの額に、汗が浮いている。一つ外れて、根の先がちりっと焦げた。
「あっ」
「ティル!」
「今のは、なし!」
俺は、柱へ走った。
途中で張りついてくる中型を、引きはがしては投げる。後ろで、膜のはじける音が続いた。ぎし、ぎし、ときしむ音も。
柱の前に立つと、でかいのが、のそりと動いた。
何十本もの足を、柱から抜く。
こっちへ、来た。
ちょうどいい。寝る前に、一発――
拳を引いた時には、黒い足の一本が、もう俺の腕に触れていた。
冷たかった。
何かが、ごっそり持っていかれた。
死ぬ。
頭の芯で、はっきりそう思った。
ずくん、と吸われた。
腕が、止まった。
ずくん。
足が、言うことを聞かない。
ずくん。
目の前が、真っ暗になった。
ノアが、倒れた。
黒い巨体が、その上にのしかかる。
「ノア!」
リゼの指で、指輪が光った。光の膜が、ノアへ伸びる。
膜が届くより先に、黒い巨体がはじかれた。
ノアのまわりで、見えない何かがふくらんだのだ。のしかかっていた足が、ずるずると押し戻されていく。
「……寝てるよ、あれ」
ティルが、つぶやいた。
ノアの下の根から、緑が走った。
柱へ。柱を駆けのぼって、天井へ。天井から壁へ。くぼみの種が、次々に光った。木の芯が、昼間みたいに明るくなる。
脈が、変わった。どくん、どくん、と、太く、強く。
「締まってく」
ティルが、天井を見上げた。
「……穴も。今、閉じたよ」
柱に残っていた黒いのが、ぽろぽろと落ちはじめた。光に焼かれるみたいに縮んで、動かなくなる。
巨体も、縮んでいた。家ほどあった体が、見る間にしぼんでいく。それでも、まだ馬よりでかい。
巨体が、向きを変えた。
出口のほうへ。根の道を、這いのぼっていく。
「逃げる気だね」
「ノア! 起きて!」
リゼは、ノアの肩をつかんで揺すった。
「起きなさい、バカ!」
目が覚めた。
体が、軽かった。
さっきまで抜けていたものが、全部戻っている。
「あいつ、逃げる!」
リゼが、根の道を指さした。黒い背中が、坂を這いのぼっていく。
腕に触れた、あの冷たさを思い出した。
「……あれに触られたら、動けなくなる」
「どのくらいで?」
「三回、吸われた。……三つくらいか」
「なら、三つ数える前に、やって!」
俺は、立ち上がった。
地面を蹴った。
根の道を、一息で駆けのぼる。黒い背中が、すぐそこにあった。
足の一本が、こっちへ伸びてくる。
ずん、と一回。
拳を、叩きこんだ。
黒い体が、真ん中から、ぐしゃりとつぶれた。細い足が、ばらばらに散る。
二回目は、来なかった。
振り返ると、ティルが口を開けていた。
「……一発?」
「一発だろ」
「さっき、あれに倒されてたよね、君」
「さっきは、寝る前だったんだよ」
リゼが、俺の背中を一発叩いた。痛くはなかった。それから、もう一発。
「……心配、させんじゃないわよ」
木の芯へ戻ると、柱が白く光っていた。
くぼみの種という種が、光っている。灰色だった根は、どこを見ても緑だった。
リゼが、足を止めた。
さっきの、彫り物の前と同じだった。柱を見上げたまま、動かない。
「リゼ?」
「……聞こえる?」
「何が」
リゼは、答えなかった。
柱のほうを向いたまま、小さく言った。
「……え?」




