第36話 今日は、思えなかった
立てなかった。
背中のやつが、重いんじゃない。重さだけなら、サボテンタを十匹担いだほうが重い。
抜けていく。
首の後ろに刺さったところから、体の芯が吸い出されていく。さっきまでの、少し疲れる、とは違った。指先が冷たい。地面についた手に、力が入らない。
背中で、細い足が何本も、がさがさと動いた。
振り落とせ。
腕が、上がらなかった。
「ノア!」
顔を上げた。
リゼがいた。
見たことのない顔だった。
リゼの指で、白い指輪が光った。
光は、まっすぐこっちへ伸びてきた。薄い膜が、俺の体をくるむ。
ばちん、とはじける音がした。
背中が、急に軽くなった。
馬よりでかい黒いのが、宙を飛んでいく。地面に叩きつけられて、ひっくり返った。細い足が、空をかいている。
「伏せて!」
ティルの声と同時に、目の前が真っ赤になった。
炎が、ひっくり返った黒いのを丸ごと包んだ。じゅう、と嫌な音がして、焦げた匂いが広がる。
細い足が、動かなくなった。
息を吐いた。
吸い出されていくのは、止まっていた。止まっただけで、戻ってはこない。地面に手をついたまま、しばらく動けなかった。
リゼが駆けてきて、俺の前にしゃがみこんだ。
「どこ、やられたの」
「首の後ろ。……たいしたこと、ねえよ」
「たいしたことある顔してるから、聞いてんのよ」
リゼの手のひらが、首の後ろに当たった。じんわりと温かくなって、抜けたものが少しだけ戻ってくる。
少しだけだ。足は、まだ重い。
「それ、守護の指輪だね」
ティルが、リゼの手をのぞきこんでいた。手のひらの火は、もう小さくなっている。
「君が危険を感じたり、守りたいと思った時だけ働く、珍しいやつ。ただ、使いすぎると壊れるよ」
リゼが、自分の指を見た。
「ディアンさんは、近くの仲間を守るって……」
「そうなの? じゃあ、そうかも」
本気で、守りたいと思った時だけ。
思い返しても、あの白い光にくるまれた覚えはない。襟に蚤がもぐりこんでいた時もだ。
「……俺、今まで守られたことあったか?」
リゼは、すぐには答えなかった。
親指で指輪をなでて、それから目をそらした。
「……あんたは、大丈夫だと思ってたから」
少し、間があった。
「今日は、思えなかったの」
何か言おうとして、何も出てこなかった。
首の後ろが、まだ温かい。
俺は膝に手をついて、立ち上がった。ティルのほうを向く。
「で。開けたもんは、閉められんのか」
「話そらしたね」
「うるせえ」
ティルはにやにやしながら、空中の穴を見上げた。馬車でも通れそうな穴の向こうで、木の幹が壁みたいにそびえている。
「やってみるけどねえ」
ティルが、両手を穴に向けた。
ひびの縁が、じりじりと寄っていく。半分ほど寄ったところで、ふるえて、止まった。ティルの額に、汗が浮く。
ぱん、と音がして、穴は元の大きさに戻った。
「だめだ」
ティルが、手を下ろした。
「開けるのは得意なんだけどねえ。閉じるのは、細かいから」
「細かいのが苦手なのは、もう聞いた」
「五十年やっても、苦手なものは苦手なんだよ」
リゼは、穴を見ていた。それから、来た道のほうを振り返った。
「……さっきの大きいのも、ここを通れるのよね」
「通れるね。現に、通ってきたし」
「夜になったら」
リゼの声が、硬くなった。
「村まで、来るわ」
柵につないできた、ヒゲチョロの尻が浮かんだ。
あいつ、縄くらい自分でほどくか。ほどけなかったら、どうなる。
「日が暮れる前に、片づけるわよ」
リゼが、立ち上がった。
「元を叩く。あいつら、あの木から出てきてるんでしょ」
「根元に、うろがあったね。巣があるなら、たぶんその下だよ」
ティルが、穴の向こうを指さした。
一歩踏み出したら、膝がかくんと折れかけた。
リゼが、横から腕をつかんだ。
「歩ける?」
「歩ける。……腹は減った」
「芋、四杯食べたでしょ」
「あれは、ゆうべの分だ」
リゼは、ため息をついた。腕は、つかんだままだった。
穴をくぐると、空気が変わった。
湿っていて、甘い。花のような、腐りかけの果物のような匂いがする。
木の根元に、うろが口を開けていた。家の戸口より、ずっと大きい。黒い帯は、全部ここへ吸いこまれていったらしい。奥から、かさかさと乾いた音がする。
ティルが、手のひらの火を大きくした。
「下りになってるね」
うろの中は、地面の下へ続く坂だった。足の下も、壁も、天井も、根でできている。
下りるたびに、甘い匂いが濃くなった。
どれくらい下りたか。
ティルの火が、横の壁を照らした。
根じゃなかった。石だった。
平らに削られた石に、何かが彫られている。
女の人だった。長い髪で、両手で器を掲げている。器のふちから、何かがこぼれていた。水か、光か、種か。
「……古いね。神代のものだ」
ティルが、火を近づけた。
リゼが、足を止めていた。
「リゼ?」
返事がなかった。
リゼは彫り物を見上げたまま、まばたきもしていなかった。




