第35話 森が呼ぶ
寝ろと言われると、寝られない。
集会所の真ん中に、毛布を一枚敷いてもらった。まわりは、寝台と布団で埋まっている。年寄りも、子どもも、母親も。
全員が、こっちを見ていた。
「……見られてると、寝られねえんだけど」
「いいから目つぶりなさい」
リゼが、戸口から言った。
目をつぶる。
まぶたの向こうで、誰かがひそひそ話している。
「あの方が寝ると、助かるんだと」
「寝るだけで?」
「寝るだけで」
寝られるかよ、こんなの。
寝返りを打つ。晩飯は、東の家の人たちが持ち寄ってくれた芋だった。うまかった。四杯食った。
四杯は、食いすぎたかもしれない。
腹が重い。まぶたも重い。
「……寝たわね」
リゼの声が、聞こえた気がした。
――――
集会所の石段に、リゼは座っていた。
隣で、ティルが手のひらに小さな火をともしている。灯りの代わりだった。
「あの柵のあたりが、端だよ」
ティルは、西の畑の柵を指さした。
「見えるの?」
「うっすらね。泡の内側にいるみたいな感じ」
リゼには、何も見えなかった。夜の村と、森の黒い影があるだけだ。
夜半を過ぎたころだった。
森のほうから、音がした。
雨が葉を叩くような、細かい音。けれど、空には星が出ている。
ティルが、火を高く掲げた。
黒いものが、地面を這ってくる。
霧かと思った。違った。一つ一つが、豆粒ほどの黒い粒だった。それが何千、何万と重なって、道を埋めて流れてくる。
リゼの喉が、ひゅっと鳴った。
「……これが」
「小さいのが育ったやつ、だね」
ティルの声も、いつもより低かった。
黒い流れは、柵の手前で止まった。
見えない壁に当たったように、ぶつかって、盛り上がって、崩れる。何度ぶつかっても、そこから先へは来ない。
流れが、向きを変えた。
壁に沿って、ぐるりと回りこんでいく。西へ。
西の端には、家が一軒だけある。
リゼは、もう走り出していた。
「ちょっと、リゼ!」
柵を越えた途端、足に何かが飛びついてきた。
リゼの手元で、白い光がはじけた。
ノアにもらった、白い守護者の指輪だった。光が薄い膜になってリゼの体を包み、飛びついてきた粒をはじき返していく。
止まらなかった。
西の端の家の戸を、蹴り開けた。
寝台の上で、年寄りの夫婦が並んで眠っていた。よく見なければわからないが、その上を黒い粒が這っている。顔にも、首にも、腕にも。
「どきなさいっ!」
リゼは、寝台に飛びついた。
膜が、ふくらんだ。リゼのまわりから、寝台ごと夫婦を包みこむ。這っていた粒が、ぱらぱらと剥がれ落ちた。
戸口から、黒い流れがなだれこんでくる。膜にぶつかって、きしむような音を立てた。
「伏せて!」
ティルの声と同時に、戸口の外が真っ赤になった。
炎が、地面を舐めるように走る。流れの後ろ半分が、燃えて消えた。
焦げた戸口から、ティルが顔を出した。
「家は燃やしてないよ。たぶん」
爺さんが、目を開けた。
「……なんじゃ、おまえさんら」
「話はあと! 集会所まで行くわよ!」
「わしは、この家で……」
「死ぬのは、あとにして!」
爺さんは、ぽかんと口を開けた。
リゼは、婆さんを背負った。軽かった。爺さんの腕は、ティルが引いた。
膜は、リゼのまわりに張りついたまま、ついてきた。黒い粒が、横から、後ろから飛びついてきては、はじかれていく。ティルが、ときどき振り返って、後ろを焼いた。
柵を越えた。
追ってきた粒が、ぴたりと止まった。
爺さんが、肩で息をしながらリゼを見た。
「……死ぬのは、まだ、いいわい」
リゼは笑おうとして、泣きそうになった。
集会所の戸を開けると、真ん中でノアが寝ていた。
大の字だった。いびきをかいていた。
「……バカ」
小さく言った声は、怒っているのか笑っているのか、自分でも分からなかった。
――――
揺すられて、目が覚めた。
窓の外が、白みはじめている。
「起きて。今すぐ」
リゼだった。顔が、すすで汚れている。袖が、焦げていた。
「……何かあったのか」
「あったわよ。歩きながら話す」
表に出ると、ティルがあくびをしながら、畑の向こうを指さした。
黒い帯が、森へ向かって引いていく。
「朝になると、帰るんだよ。巣にね」
「ついていけば、迷わない」
リゼが言った。
ヒゲチョロは、村に置いていくことになった。柵につなぐと、尻を向けられた。
歩きながら、リゼは夜のことを話した。黒い粒の群れ。西の端の家。指輪。ティルの火。俺は、大の字で寝ていたらしい。
黙って聞いていた。
リゼが走っている間、俺は寝てた。
腹の底が、じりじりした。
迷いの森は、入って十歩で夜になった。
木の幹が、家より太い。枝と葉が何重にも重なって、空がない。ティルの火だけが、足元を照らしている。
振り返ると、入ってきた道が、もう分からなかった。
前を見る。黒い帯は、まだ見えた。木の根の間を、奥へ奥へと流れていく。
しばらく歩いたころ、首の後ろがざわっとした。
昨日の夜の、嫌な感じとは違う。もっと重い。
木の陰から、何かが跳んだ。
猫くらいの大きさだった。黒くて、平べったくて、細い足が何本も生えている。
蚤だ。猫くらいある、蚤だ。
一匹じゃなかった。右からも、左からも、上からも。
全部、俺に向かってきた。
一匹を叩き落とす。二匹目を蹴る。三匹目が、背中に張りついた。
首の後ろに、ちくりと何かが刺さった。
すうっと、何かが抜けていく。
……少し、疲れた。
疲れた?
背中のやつを引きはがして、握り潰した。
「ノア!」
リゼが、こっちへ来ようとした。
「来んな」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「下がってろ。こいつら、俺のとこに来る」
前へ出た。リゼとティルから、離れる。
黒いのが、ぞろぞろとついてきた。
「こっち来い」
叩く。潰す。蹴る。張りつかれる。引きはがす。
そのたびに、少しずつ、何かが抜けていく。
足が重い。息が上がっている。
後ろのほうで、ティルの火が何度も光った。俺からはぐれた何匹かを、焼いているらしい。
どれくらい歩いたか、分からない。
最後の一匹を潰した時、額から汗が落ちた。
振り返ると、リゼが俺の顔を見ていた。薄暗い中でも、顔色が変わったのが分かった。
「……なんでもねえよ」
木が、途切れた。
森の真ん中が、ぽっかりと開けていた。空は見えない。一本の木の枝が、空を全部ふさいでいた。
その真ん中に、木が立っていた。
でかい、なんてもんじゃなかった。幹だけで、ルト村がまるごと入りそうだ。根が丘みたいに盛り上がっていて、見上げても、てっぺんが見えない。
黒い帯が、その根元へ吸いこまれていく。
「……すべての種を、生む木」
リゼが、つぶやいた。マレが読んだ一行だ。
歩き出そうとした俺の襟を、ティルがつかんだ。
「待って」
ティルは、何もない空中に手のひらをかざしていた。目つきが変わっていた。
「……ここ、結界があったんだ」
「結界?」
「前に、森の入り口まで来たことがあるんだけど。その時は、分からなかった。僕、不思議なとこにはいろいろ行ってるんだけどねえ」
ティルの指先が、見えない何かをなぞる。
「ほころんでる。元は、相当すごい結界だったんだね。あることすら、この僕に分からなかったんだから」
黒い帯は、その見えない何かをすり抜けて流れていく。
「……あいつらは、通れるのか」
「網の目みたいに、穴が開いてるんだよ。でも隙間が小さすぎる。僕たちは大きすぎて、通れないね」
「開けられねえのか」
「できるよ」
ティルは、あっさり言った。
「でも、中に何がいるか分からないからなあ」
それから俺の顔を見て、にっこり笑った。
「ま、君が責任とってくれそうだし。開けようか」
ティルが、両手を前に突き出した。
何もない空中に、ぴしり、とひびが走った。ひびは広がって、馬車でも通れそうな穴になった。
「あ。ちょっと大きく開いちゃった」
その向こう、幹の低いところに、こぶがあった。
こぶが、ゆっくりと向きを変えた。
馬よりでかい。黒くて、平べったくて、細い足が何本も――
こぶが、跳んだ。
開いたばかりの穴を抜けて、まっすぐ俺に。
背中に、重いものが落ちてきた。
膝から、ふっと力が抜けた。
気づいた時には、地面に片膝をついていた。




