34. 村の半分
よく寝た。
土間の床だったけど、よく寝た。伸びをすると、背中がぱきぱき鳴った。首のむずむずも、きれいに消えている。
「……おはよう」
低い声がした。
リゼが、戸口に座っていた。昨日の夜と同じ場所、同じ格好だ。目の下が、マレみたいに真っ黒だった。
「おう。おはよう」
「おう、じゃないわよ」
「寝ちまったな」
「寝ちまったわね」
にらまれた。怒鳴られるより怖い。
「一晩中、あんたが息してるか確かめてたのよ。痩せてないか、顔の色が変わってないか、ずっと」
「……変わってたか」
リゼは、俺の顔をじっと見た。
「変わってない。腹が立つくらい、つやつやしてる」
表で、戸の開く音がした。
隣の家だった。女が一人、桶を抱えて出てきた。昨日、俺たちを見て戸を閉めた女だ。
女は、井戸へ行きかけて、足を止めた。自分の手を見ている。握って、開いて、また握った。
家の中から、子どもの声がした。
「かあちゃん、おなかすいた」
女は、桶を落とした。
家に駆けこんでいく。泣き声が聞こえた。女の声だった。
気づくと、リゼが立ち上がっていた。
リゼは、戻ってこなかった。
村の家を、一軒ずつ回っているらしい。戸を叩いて、中に声をかけて、また次の戸を叩く。寝てないくせに、よく動く。
井戸の縁に座って待っていると、ティルがあくびをしながら来た。
「僕、もう寝る時間なんだけどねえ」
そう言いながら、隣に腰かける。足をぶらぶらさせる。
「ねえ」
「なんだよ」
「君、結界張れるの?」
「……は?」
「寝てるとき、何か透明なものが出てたよ。君を真ん中に、こう、丸く」
ティルは、両手で大きな輪を描いてみせた。
「朝まで、消えなかった。僕、解析は得意なんだ。あれは結界だよ。それも、すごく大きい」
「知らねえ。寝てただけだ」
「寝てただけで、あれ?」
「寝てただけだ」
ティルは、じっと俺を見た。昨日の夜の「へえ」の時と、たぶん同じ目だった。
「……君、何者?」
「遊び人」
ティルが、ぷっと噴き出した。
「遊び人! いいねえ、それ」
笑うとこか、そこ。
ティルは、急に笑うのをやめた。小さな指を、俺の襟元に伸ばしてくる。
「動かないで」
襟の内側から、何かをつまみ上げた。
黒い粒だった。胡麻粒くらいの大きさで、潰れている。細い足が何本も、折れ曲がっていた。
「昨日、ばりばりかいてたでしょ。その時に潰れたんだね」
ティルは、粒を手のひらにのせた。指先に、小さな光がともる。光を当てたまま、顔を近づけた。
目つきが、変わっていた。
「蚤……に見えるけど。魔物だね」
「蚤の魔物?」
「こんなに小さいのは、初めて見たよ。何日も見張ってて、一匹も見つけられなかったわけだ」
「なんで俺にくっついてたんだよ」
「さあ。おいしそうだったんじゃない?」
「うまくねえよ」
リゼが戻ってきたのは、日が高くなってからだった。
井戸の前にしゃがみこんで、拾った枝で地面に線を引き始める。村の道、家の場所、畑。
「こっち」
枝の先で、東側の家をいくつも叩いた。
「この辺りの家は、みんな朝ごはんを食べたって。寝たきりのおばあさんが、自分で起き上がった家もある」
次に、西側。
「こっちは、変わらない。前より悪くなった人もいる」
リゼは、その間に、ぐるりと線を引いた。
大きな丸になった。村の、ちょうど半分くらいを囲んでいる。
丸の真ん中に、枝を突き立てた。
俺が寝た、空き家だった。
ティルが、丸をのぞきこんだ。
「合うね。僕が見たのも、ちょうどそのくらいだった」
「見たって、何を」
「透明なのが、出てたんだよ。この子から」
リゼが、俺を見た。
首をかいた。もう、かゆくなかったけど。
「……寝てただけだぞ」
リゼは、しばらく黙っていた。
それから、枝を放り出して立ち上がった。
「あんた、今夜も寝なさい」
「寝るなって言われたんだけどな」
「いいから寝なさい」
「昨日、あんだけ怒ったくせに」
「昨日は昨日よ!」
村の真ん中に、集会所があった。
リゼの話はこうだ。村の真ん中で寝ても、丸が西の端の家まで届くかは分からない。だから、弱った人たちには、みんな集会所に来てもらう。俺は、その真ん中で寝る。
村長は、話を聞き終わる前から、何度もうなずいていた。
運ぶのは、俺の役目だった。
寝たきりの年寄りを、寝台ごと持ち上げる。片手に一台ずつ。村の道を、そのまま歩いた。
すれ違った男が、鍬を取り落とした。
「……あの方は、何者で」
村長が、かすれた声で聞いた。
「遊び人だって」
ティルが、笑いをこらえながら答えた。
夕方までに、集会所は寝台と布団でいっぱいになった。
来なかったのは、西の端の一軒だけだった。年寄りの夫婦の家で、爺さんが「この家で生まれて、この家で死ぬ」と言ってきかないらしい。
リゼは、西の端のほうを、しばらく見ていた。
――――
同じころ。
ハルカの領主の館で、ヴァルド伯爵はペンを置いた。
机の上の書面には、伯爵家の印と、自分の名と、息子の名が並んでいる。家督を譲る、という書面だった。
向かいに座った女が、それを取り上げた。王の巡察官、イサナだった。
「よかろう」
イサナは短く言って、書面を巻いた。
「陛下は、これ以上は問わぬと仰せだ。二度目は、ない」
「陛下のご温情に、心より感謝を」
伯爵は穏やかにほほえみ、頭を下げた。
顔は、少しも崩れなかった。
イサナが出ていき、扉が閉まった。足音が遠ざかり、馬車の車輪の音がして、それも消えた。
部屋が、静かになった。
伯爵は、机の上のペンを見た。
手に取った。
ぱきり、と音がした。
ペンが、指の中で二つに折れていた。インクが手のひらを伝い、袖口を黒く染めていく。
「……遊び人、ごときが」
つぶやいた声は、ひどくかすれていた。
夜杯。工房。盗掘団。長い年月をかけて築いたものが、あの男が通るたびに崩れていく。
扉が、叩かれた。
「旦那様。……例の方が、お見えです」
伯爵は、折れたペンを引き出しに落とした。インクのついた手を、手巾で拭う。
拭い終わった時には、顔は元に戻っていた。
入ってきたのは、灰色の外套の男だった。頭巾を深くかぶっていて、顔は見えない。
「お困りのようですね」
「困ってなどいない。家督を譲っただけだ」
「それは何より」
男は、頭巾の奥で笑ったようだった。
「では、遺物の取引は、続けていただけますね」
伯爵は、手巾をたたんで机に置いた。
「家督は譲った。だが、倉の鍵は、まだ私が持っている」
そう言って、ほほえんだ。
爪の間に、インクが黒く残っていた。




