第31話 待つ
十匹で、銀貨一枚。
受付の女がそう言った瞬間、下水の臭いのことはどうでもよくなった。
「最初は、下町の取りまとめ役の方が出した依頼で、銀貨五枚だけだったんです。でも、いつまでも片づかないので、役所を通して国からお金が出まして。今は、ネズミのしっぽ十本ごとに、銀貨一枚が上乗せされます」
「百匹で、十枚か」
「は、はい」
「千匹なら、百枚か」
「……そんなに捕まえた方は、いません」
受付の女は、気まずそうに目をそらした。
「前は、挑む方もいたんです。でも、何日探しても、ネズミがほとんど見つからなくて。奥まで入った組は、狭いところで囲まれて、逃げ帰ってきました。それから、誰も受けなくなって」
「ネズミがいなくなったんじゃねえのか」
「被害は、増え続けています」
南の下町は、昼でも薄暗かった。
取りまとめ役の親父は、パン屋だった。粉袋を見せられる。底がかじられて、白い粉がこぼれていた。
「夜になるとな、下から鳴き声がするんだ。キイッて、甲高いのが一つ。そうすると、あっちこっちの溝から、ネズミが一斉に出てくる。もう一回鳴くと、一斉に引っこむ」
「一斉に?」
リゼが聞き返した。
「ああ。兵隊みてえにな。何か月も、毎晩だ」
奥から、子どもの泣き声がした。パン屋の娘だ。指に布を巻いている。ゆうべ、寝ているところをかじられたらしい。
「傷なら、見ましょうか」
リゼが膝をついて、布をほどいた。手のひらを傷にかざすと、淡い光がにじんで、赤く腫れた指が元の色に戻っていく。
娘は泣きやんで、きょとんとした。
「……お前、そんな魔法使えたのか」
「僧侶よ、忘れたの?」
覚えてないが、黙っておいた。
リゼは娘の頭をくしゃっとかき回してから、立ち上がった。笑っていなかった。
下水番の爺さんが、丸めた紙を差し出した。下水の地図だ。
受け取ったのはリゼだった。俺は見もしなかった。
「首飾りつけてりゃ、魔物は勝手に寄ってくるんだよ。砂漠じゃ、待ってりゃ向こうから来た」
リゼは、俺の胸元の〈邪神の心〉を見て、嫌そうな顔をした。
夜の下水は、思った以上に臭かった。
明かりを掲げると、煉瓦の天井から水が垂れている。足元の溝を、黒い水がゆっくり流れていく。
待つ。
……来ねえ。
足を踏み鳴らす。壁を叩く。
来ねえ。
溝の暗がりで、かさかさと何かが動く音だけがする。明かりを向けると、もう何もいない。
「寄ってこねえな」
首飾りを指でつつく。いつもなら、とっくに群がってきている。
「……魔物じゃねえのか。普通のネズミか」
「最初から言ってたでしょ。ネズミよ」
リゼが、地図を広げて先に立った。
それから、歩いて探した。曲がり角のたびにリゼが地図をにらみ、俺が溝をのぞき込む。
一刻歩いて、捕まえたのは三匹だった。
銀貨一枚にもならねえ。
「あんまり暴れないでよ」
「なんでだよ」
「見ればわかるでしょ、今にも崩れそうじゃない」
確かにあまり丈夫そうには見えなかった。
奥の暗がりから、重いものを引きずるような音がした。
ネズミの足音じゃない。もっと大きい。
明かりを向ける。壁の低いところに、割れた壁があった。その奥で、赤い目が二つ光った。
でかい。目と目の間が、俺の手のひらより広い。
「いたな」
壁の隙間に腕を突っ込む。肩でつかえた。指先が、硬い毛にかすっただけだ。
赤い目は、それ以上近づいてこない。かといって、逃げもしない。管の奥から、じっとこっちを見ている。
こいつは魔物だ。首飾りに引かれて、ここまで来てやがる。
キイッ。
甲高い声が、下水中に響いた。
足元が、ざわっと鳴った。
溝という溝から、黒いものがあふれ出してくる。ネズミだ。何百といる。それが、俺をよけて二つに割れた。
割れた先に、リゼがいた。
「リゼ!」
ネズミが、リゼの足元に殺到する。煉瓦の床が、みしりと鳴った。
床が抜けた。
かじられて、中が空っぽになっていたんだ。リゼの体が、明かりごと下へ消えた。水音がした。
穴をのぞき込む。真っ暗だ。下を流れる水の音と、ネズミの鳴き声だけがする。
「リゼ!」
遠くで、悲鳴が上がった。
下にも水路があって、流れに沿って先へ続いているらしい。声が、離れていく。
穴に飛び込もうとした。その時、声が響いた。
「親玉をやって!」
リゼの声だ。下水の壁に、何重にも跳ね返ってくる。
「それで止まる! 鳴き声で動いてるのよ! あいつを……!」
声が、途切れた。
片足が、穴のほうへ出かかっていた。
振り返る。赤い目が光っている。
砂漠じゃ、待ってりゃ向こうから来た。
首飾りを、握りしめる。
その場に、立った。
下から、またリゼの声がした。もう、言葉になっていない。
奥歯がきしんだ。
来い。
壁の奥で、爪が煉瓦を引っかく音がした。キイッ、キイッと、鳴き声が上ずる。赤い目が、少しずつ大きくなる。
逆らってやがる。壁に爪を立てて、踏んばっている。
灰色の鼻先が、壁の裂け目からのぞいた。子牛ほどもある体が、裂け目を押し広げるようにして這い出てくる。前歯が、杭みたいに長い。
毛を逆立てて、俺を見上げた。
何も言わなかった。
拳を、振りぬいた。
壁ごと、吹き飛んだ。
……しまった。天井は、落ちてこなかった。
下水が、静かになった。
次の瞬間、あちこちで、ネズミがでたらめに走り回る音がした。ぶつかり合い、溝に落ち、きいきい鳴きながら、ばらばらに逃げていく。
穴に飛び込んだ。
腰まで水だった。流れの先へ、水を蹴って走る。行き止まりの壁があった。悲鳴は、その向こうから聞こえていた。
もう気にしてられねえ。
壁を、ぶち抜いた。
崩れた煉瓦の向こう、水路の脇の狭い足場に、リゼが座り込んでいた。
明かりは、水に落ちて消えたらしい。手のひらに灯した淡い光の中で、リゼはずぶ濡れのまま膝を抱えていた。
足場には、ネズミの毛が散らばっていた。見えない壁に何度も飛びかかっては、弾かれたらしい。腕にも首筋にも、噛み跡ひとつない。
白い指輪の守りは、仕事をしてくれたようだ。
足場の下で、逃げ遅れたネズミがうろうろしている。もう、リゼに向かっていくやつはいない。
「……遅いのよ」
リゼが、顔を上げた。
怒った顔だった。目から、ぼろぼろ涙がこぼれていた。
「地図、お前が持ってたからな」
「……何よ、それ」
リゼは、泣きながら吹き出した。
それから、朝までネズミを追いかけた。
統率が切れたネズミは、もう隠れ方を知らなかった。明かりの下をうろうろして、踏めば潰れた。
リゼは、しっぽを切る係だった。一本切るたびに、ものすごく嫌な顔をした。
それでもやめなかった。
「十匹で、銀貨一枚よ。数えなきゃ損でしょ」
金色の指輪に、しっぽを詰め込む。指輪が汚れる気がした。……気のせいだ。
朝日の差す下水の出口に主の死骸を引きずり出すと、下水番の爺さんがへたり込んだ。
「こ、こいつが、鳴いてたやつか……」
組合の窓口に、しっぽを出した。
出しても出しても、指輪から出てくる。受付の台からあふれて、床に落ちた。最後に、主の前歯を二本、山のてっぺんに載せる。
受付の女が、数えるのをやめた。
「……あの、何本……」
「リゼが数えた。六百八十三本」
「六十八枚と、最初の五枚で、銀貨七十三枚ね」
リゼが横から言った。
受付の女は、帳簿と、しっぽの山と、俺の顔を見比べた。前にも、こんな顔を見た気がする。
奥の扉が開いた。
白髪まじりの大柄な男が出てきた。組合の責任者らしい。男は、しっぽの山と、てっぺんの前歯を見て、それから俺を見た。
「銀級の、ノア・ベルだな」
「おう」
「頼みがある。……依頼を、受けてもらえないか」




