19. 面子の値段
朝から肉だ。
生きててよかった。
宿の食堂の隅で、厚切りの燻し肉にかぶりつく。脂が、口の中でじゅわっと広がった。
「朝から金貨1枚ぶんも頼む人、初めて見たわ」
向かいで、リゼが芋をつつきながら言った。
「金はあるんだ。1枚くらいいいだろ」
「そういう問題じゃないの。それに高すぎるわよ、その肉」
「信じられないくらい、うまい」
行儀の悪いことに、リゼのフォークが伸びてきた。
口に含んだ表情を見れば言葉なんて必要なかった。
また頼もう。
裏庭に面した窓から、栗毛の鼻先がぬっと入ってきた。ヒゲチョロだ。肉の皿に鼻を寄せて、ふんふんと嗅いでいる。
「やらねえぞ」
ヒゲチョロは鼻で笑い、俺の皿の芋をくわえて引っ込んだ。
「てめえ」
「相席、よろしいですか」
顔を上げると、白髪の男が立っていた。仕立てのいい灰色の外套。食堂の卓は、ほかにいくらでも空いている。
「よくねえ」
「では、失礼して」
男は卓の端の椅子を引いて、腰を下ろした。宿の親父に茶を頼み、外套の懐から紙を一枚出して、卓に置く。
折り目のついた、帳簿の切れ端だった。
「昨日、足元に飛んできました」
リゼの手が止まった。
「コーセイと申します。ロウェルに帳簿を預けていた側の者です」
「……上の奴ってことか」
「ええ。上から二番目、くらいでしょうか」
茶が来た。コーセイは湯気を一度吸い込んでから、口をつけた。
「金貨を、2枚だけ持っていきましたね」
「あ?」
「机には5枚あったはずです。3枚には手をつけなかった。見ていました」
「強盗になるからな」
「ええ」
コーセイが、少しだけ目を細めた。
「ですから、人をやらずに、私が来ました」
「ロウェルは」
リゼが聞いた。
「もう、帳簿を触ることはないでしょう」
それだけだった。リゼは、それ以上聞かなかった。
「昨日、名剣に吊るされたのは、ロウェルではありません。私どもの看板です」
コーセイは、茶の杯を静かに置いた。
「王都中が見て、笑いました。笑われたままでは、この街で商売ができません。笑った者は、次から払わなくなりますので」
「知るか」
「ええ、あなたには関わりのない話です。ですから、値段の話だけをします」
コーセイは、こっちをまっすぐ見た。
「金貨500枚。夜杯から止まった上納金と、割れた看板の分です」
「……ごひゃく?」
口の中の肉が、急に味をなくした。
金貨1枚で、朝からこれだけ肉が食えるんだぞ。500枚って、何年ぶんの肉だ。
「額が額です。半年ほど差し上げましょう」
天気の話でもするような声だった。
「期限までは、私が下の者を止めておきます。期限を過ぎれば、あなた方も、あなた方に関わる人間も、安全は保証できません」
椅子を引いた。
何も言わずに立ち上がる。
拳を握った。
――パチン。
指が鳴った。
握ったはずの右手が、勝手にほどけて、親指と中指をこすり合わせていた。澄んだ、いい音だった。食堂じゅうに響いた。
……なんでだよ。
「いい音ですね」
コーセイは、眉ひとつ動かさなかった。
リゼが、俺を見ていた。小さく首を振る。
俺は、椅子に座り直した。
コーセイは茶を飲み干すと、銀貨を数枚、卓に置いた。
「肉の代金も、こちらで」
「……肉もか」
「ええ。では、半年後に」
得した、と一瞬思ってしまったのが、腹立たしかった。
白髪の頭が戸口から消えるまで、誰もしゃべらなかった。
「殴らなくて正解よ」
リゼが、やっと息を吐いた。
「あの人を殴っても、下の人間が来るだけ。昨日の六人みたいなのが、何十人もね。それも、私たちのところじゃなくて――」
リゼは、鑑定院のほうへ目をやった。
古い道具を前にすると飯を忘れるじいさんと、すぐ真っ赤になって突っ込んでくる弟子の顔が浮かんだ。
「……分かってる」
分かってる。分かってるけど。
卓の上の帳簿の切れ端を、くしゃりと握りつぶした。
「半年も借金返済なんかしてられっか」
「借金じゃないでしょ」
「同じだ。期限があって、払えなきゃ誰かがひどい目にあう」
リゼが黙った。
夜杯の借金で捕まったのは、保証人になったリゼだ。
左手を見る。指輪がずらりと並んでいる。その中で、金色のやつが朝の光を照り返していた。
〈収納の指輪〉。物が入る。たぶん、いくらでも。
「砂漠で拾ってくりゃいい」
「……は?」
「物干し竿だって、あそこで拾ったんだ。サボテンタを狩って狩って狩りまくって、この指輪に詰めてくる」
「何が出るか分からないじゃない」
「置いてきてるやつもあるんだ」
「もうないかもしれないじゃない」
「その時は出るまで狩る」
リゼはさらに何か言いかけて、やめた。
皿に残った芋を口に放り込んで、立ち上がる。
「どこ行くんだよ」
「荷造り。水袋、いくつあっても足りないでしょ」
窓の外で、ヒゲチョロが耳を立てていた。
さっきまでの態度が嘘みたいに、鼻を鳴らして、前脚で地面をかいている。
サボテンタの名前は、ちゃんと聞こえていたらしい。
鑑定院の戸を開けると、紙と埃の匂いがした。
奥の机で、ディアンのじいさんが拡大鏡を片手に、古い腕輪を覗き込んでいる。その横で、マレが帳面に何か書きつけていた。
「ノアさん! リゼさんも。どうしたんですか、こんな朝早く」
「ちょっと砂漠行ってくる。留守番な」
「はい、行ってらっしゃい……え? さ、砂漠ですか!?」
マレが椅子から立ち上がった。帳面が床に落ちる。
「あの、それなら私も――鑑定が要るかもしれませんし、品物の目利きなら――」
「拾うだけだ。鑑定は帰ってからでいい」
背を向けたまま言って、戸口を出る。ヒゲチョロが、早くしろと鼻先で俺の背中をどついた。
後ろで、リゼがマレに話しているのが、途切れ途切れに聞こえた。500枚。半年。それまでは手を出さないって。だから、ここにいて。すぐ戻るから。
「……はい」
マレの声は、明るかった。
通りの先へ、二人と一頭の背中が小さくなっていく。
マレは、落ちた帳面を拾ったまま、しばらく窓の前から動かなかった。
「マレ」
ディアンが、拡大鏡を置いていた。
「……大丈夫です。私、鑑定師ですから。拾ってきた品を読むのが、仕事ですし」
笑ってみせる。うまく笑えたと思う。
ディアンは何も言わなかった。腰の鍵束から一本を外して、机の上に置く。古い真鍮の鍵だった。
「地下の書庫だ。砂漠の古い記録は、そこにある」
マレは鍵を見た。それから、ディアンを見た。
師は、もう腕輪に目を戻していた。
「……置いていかれたんじゃ、ありません」
鍵を握る。冷たかった。
「留守番、です」
地下への階段は、暗くて埃っぽかった。
ランプを掲げて、いちばん奥の棚へ手を伸ばす。背表紙の文字は、ほとんど擦り切れていた。
マレは袖で埃を払い、一冊目を開いた。




