11. 首輪の名前
伯爵は、すぐに笑みを取り戻した。
「これは、巡察官殿。このような田舎まで、ようこそ」
落とした書類を兵に拾わせ、何事もなかったように胸を張る。
「ですが、裁きは正当なものです。この者たちは、私の裁きで決まった犯罪奴隷。判決書もここに」
「見せてもらおう」
イサナが手を出した。
伯爵は、ほんの一瞬だけ迷ってから、書類の束を差し出した。
イサナは一枚ずつめくった。封蠟、署名、伯爵家の印。
「書式に誤りはない」
伯爵の口元が、ゆるんだ。
「では、裁きを続けても……」
「待ってください」
台の上から、声がした。
マレだった。両手で、地下で外した鉄の首輪を抱えている。
一晩寝て、魔力は戻ったらしい。顔色はまだ白いが、まっすぐ立っている。
「マレ、です。ディアン先生の弟子です。この首輪を、鑑定させてください」
「やってみろ」
マレは台を降りて、首輪のひとつに指を置いた。
目を閉じる。広場が、静かになった。
「……〈ヴァルド伯爵領工房の首輪〉」
マレは目を開け、イサナをまっすぐ見た。
「犯罪奴隷の首輪は、王国の工房で作るものです。図録で見ました。本物なら、名前は〈王国の罪人の首輪〉になります」
次の首輪。その次。
「これも。これも……全部、伯爵様の領地の工房で作られています」
声が、震えていた。でも、最後まで読み切った。
伯爵は、穏やかな顔のままだった。
「領主には、特例で首輪を作ることが許される場合もある」
「王の許しがあれば、な。ヴァルド伯爵家に、その許しは出た記憶はないが」
伯爵の顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だけ。すぐに、また穏やかな顔に戻る。
「……工房の差配は、執事に任せておりまして。私は、騙されていたようだ」
伯爵は、兵士に顎をしゃくった。
「連れてこい」
兵士たちが引きずってきたのは、縄で縛られた男だった。
頭に包帯を巻いている。後頭部のあたりが、まだ腫れているらしい。
ナハトだった。
「この者の仕業です」
伯爵は、静かに言った。
「夜杯商会のナハトが、偽りの証言を持ち込み、私に判決書を書かせた。昨夜のうちに捕らえておきました」
ナハトが、顔を上げた。
細い目が、大きく見開かれていた。
「……伯爵様。それは、ないでしょう」
声は、まだ丁寧だった。
「印を押したのは、あなたです。売り先を決めたのも。私の取り分は、三割……」
「黙れ」
伯爵は、ナハトを見もしなかった。
ナハトの口元が、ひくひくと動いた。
丁寧な言葉が、剥がれ落ちていく。
「ふざけんな! 全部てめえの指図だろうが! 1年前のこいつの借金だって、てめえの取り分のために鉛のサイコロで作ったんだ! 帳簿だってある、てめえのとこの……!」
兵士が、ナハトの口を押さえつけた。
帳簿。
そういえば。
「賭場の金庫部屋に、帳簿が並んでたぞ。金貨の袋の隣に」
広場中の目が、また俺に集まった。
イサナが、伯爵の兵を一人指さした。
「そこの兵。この男についていけ。帳簿に手を加えていないか、その目で見届けろ」
「は、はい!」
兵士は、一歩目で置いていかれた。
仕方ないので、小脇に抱えて走った。
金庫部屋の棚から帳簿をあるだけ抜き取り、そのまま広場へ戻る。兵士は、地面に下ろしたとたんにへたり込んだ。
「……見届けました。たぶん」
イサナは帳簿を開き、黙って頁をめくった。
しばらくして、指が止まった。
「マレ。前へ」
マレが、俺の隣から一歩出た。
「君の判決書には、工房から道具を盗んだとある。覚えは?」
「ありません。先生と一緒に、連れてこられたんです」
イサナは、帳簿を広場へ向けた。
「こちらには、『鑑定師の弟子。窃盗の罪を付け、売却する』とある」
広場が、ざわついた。
マレの指が、服の裾をぎゅっとつかんだ。
イサナは、判決書と帳簿を交互にめくった。
「ほかの者も同じだ。名前、売り先、値段。その横に、後から付ける罪名が書いてある。……裁きをしたのではない。売るために、罪人にしたのだな」
頁を一枚、めくる。
「そして売上の三割が、毎月伯爵家に渡っている。受け取りは、伯爵家の執事の名だ」
伯爵は、眉ひとつ動かさなかった。
「執事が、私に黙ってこんなことを。嘆かわしいことです」
後ろで、リゼが小さく舌打ちした。
俺も、同じ気分だった。
イサナは帳簿を閉じ、広場を見回した。
「裁きを告げる」
よく通る声だった。
「この帳簿と証言により、ここにいる者たちの罪は、売却のために作られたものと認める。偽りの罪で出された判決は、無効だ」
イサナは、マレの抱えた首輪を見た。
「無許可の首輪で人を縛り、偽りの判決書で売る。これは、王国法に反する」
それから、台の上の人たちへ顔を向けた。
「君たちは、全員自由の身だ」
台の上で、誰かが泣き出した。広場のあちこちから、声が上がる。
「夜杯商会は解散。ナハトと、伯爵家の執事は、王都で裁く。罪人とされたノア・ベルは、罪に問わない」
それから、イサナは伯爵に向き直った。
「ヴァルド伯爵。爵位を持つ者を裁くのは、王だ。私がこの場で、そなたへの裁きを下すことはできん」
伯爵の口元に、薄い笑みが戻った。
「だが、そなたの印、領地の工房、伯爵家に渡った金。すべて、私が王に報告する。執事とナハトの取り調べも含めてな」
「ご随意に」
伯爵は、優雅に頭を下げた。
それだけだった。ここでは、連れていかれない。
でも、頭を上げた伯爵の指で、印章指輪が小刻みに震えていたのを、俺は見た。
「それと、もう一つ」
イサナが、台の上のリゼを見た。
「夜杯の賭場で作られた借金だが。いかさまで作った借金は、借金ではない。保証人の契約も、同じく無効だ」
リゼが、口を開けたまま固まった。
金貨280枚。
1年間、あいつを縛っていたものが、一言で消えた。
リゼは、両手で顔を覆った。
指の隙間から、「バカみたい」という声が漏れた。笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
たぶん、両方だ。
イサナが、俺の方を向いた。
「ノア・ベル。君にも何か報いねばならん。望みはあるか」
「……金?」
後頭部を、ポコ、と叩かれた。
台から降りてきたリゼだった。まだ目が赤い。
イサナの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「……考えておこう」
広場を去る時、伯爵が一度だけ振り返った。
薄い笑みのまま、俺を見て、小さく言った。
「遊び人風情が」
その夜。
伯爵は、書斎の窓を閉めた。
机の向こうに、黒い外套の客が座っていた。顔は、フードの影で見えない。
「申し訳ない。ハルカからの品は、しばらく流せそうにありません」
「構いません」
客の声は、ひどく穏やかだった。
「それより、伯爵。あの遊び人の首元に、黒い石の首飾りがありましたね」
「……ええ。それが何か?」
「奥が、赤く光っていた」
客は、ゆっくりと立ち上がった。
「我々が百年探していたものかもしれません」




