第10話 巡察官を背負って
右手の白い指輪を、引っ張った。
すんなり抜けた。ピンクのやつとは大違いだ。
「リゼ、これ着けとけ」
差し出すと、リゼが固まった。
指輪と俺の顔を、何度も見比べている。後ろでマレが、なぜか両手で口を押さえていた。
「……どういう意味?」
「近くの奴を守るみたいだ。俺がいない間、ここの連中に兵が手を出せないようにな」
「……知ってる。さっき聞いてた」
リゼは、ぶっきらぼうに指輪を受け取った。なぜか不機嫌だ。
「なんだよ」
「なんでもない」
マレが、壁の方を向いて肩を震わせている。よく分からん。
ディアンからは、封蠟を押した手紙を受け取った。
「巡察官のイサナ殿とは、王都で何度か仕事をした。私の名前を出せば、話は聞いてもらえるはずだ」
「助かる」
出ていこうとすると、マレが思い出したように言った。
「あ、そういえばリゼさん。ノアさん、賭場でヒゲチョロさんを賭けてました」
空気が、凍った。
「……人の馬を?」
「勝ったからいいだろ! 行ってくる!」
作業棟の裏口から、全力で飛び出した。
西へ。
街道は、一本道だった。
砂漠の砂もない、荷馬車も引いていない。踏み込むたびに、景色が後ろへ飛んでいく。追い越した旅の商人が、馬ごとひっくり返りそうになっていた。悪い。
知ってしまうと、不思議なもんだ。
これは砂漠で鍛えたからじゃない。俺が、普通じゃないからだ。
ちょっとだけ、楽しくなってきた。
山を一つ越え、川を飛び越え、太陽が西に傾く頃、石壁に囲まれた町が見えた。
サリアだ。
馬で片道三日。半日で着いた。
巡察官は、町で一番大きい宿に泊まっていた。
入口で護衛に止められたが、ディアンの手紙を見せると、護衛は顔色を変えて奥へ引っ込んだ。
しばらくして出てきたのは、白髪をきっちり結い上げた女だった。背筋が、槍みたいにまっすぐ伸びている。
「王の巡察官、イサナだ。ディアンの手紙は読んだ」
女は、俺を頭から足まで眺めた。
「ハルカの伯爵が、偽りの裁きで人を売っている。その証拠がある。そして明朝、広場で裁きがある。……書いてあることは分かった」
「じゃあ、来てくれるか」
「行くのは構わん。だが、ハルカまでは三日だ。明朝には間に合わない」
「間に合う」
「どうやって」
背中を向けて、しゃがんだ。
「乗ってくれ」
イサナは、何も言わなかった。
護衛が「無礼な!」と剣に手をかけたが、イサナが片手で制した。
「……君は、今日ハルカを出たと手紙にある。それでもう、ここにいる」
「走ってきた」
イサナは、長いこと俺の背中を見ていた。
「よかろう。やってみせろ」
後になって、イサナはこの時の返事を後悔したと言っていた。
夜の街道を、西から東へ。
来た時より、少しだけ速く走った。急いでいたし、楽しかったからだ。
「……下ろせ!」
「間に合わなくなるぞ」
「いや、下ろすな! 今下ろされたら死ぬ!」
背中の上で、王の巡察官が俺の首にしがみついている。きっちり結っていた白髪は、もうぐしゃぐしゃだ。
「川、飛ぶぞ」
「飛ぶなあああ!」
飛んだ。
空が白み始めた頃、ハルカの壁が見えた。
門は開いていた。あの門番が、俺を見て黙って道を開けた。
町の真ん中の広場に、人が集まっていた。
木で組んだ台の上に、助けた人たちが並んでいる。縛られてはいない。先頭に立つリゼの指で、白い指輪が光っていた。
台を囲む兵士たちの槍は、半分くらい穂先がなかった。
夜のうちに力ずくでどうにかしようとして、できなかったらしい。それでリゼは、「全員を罪に問う」を避けるために、自分たちから裁きの場に出てきたんだろう。
あいつらしい。
台の前で、伯爵が書類を読み上げていた。
「……罪人ノア・ベルは、裁きを恐れて逃亡した。よって、ここにいる者全員を、その共犯として……」
「逃げてねえよ」
広場の端で、立ち止まった。
何百という顔が、一斉にこちらを向いた。
俺は、背中の巡察官をそっと下ろした。
イサナは一度よろめいて、俺の肩をつかんだ。青い顔で、口元を押さえる。
それから、深く息を吸って、背筋を伸ばした。
ぐしゃぐしゃの白髪のまま、懐から金の印を掲げる。
「王の巡察官、イサナだ」
広場に、よく通る声が響いた。
「その裁き、預からせてもらおう」
伯爵の手から、書類が一枚、ひらりと落ちた。




