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第2回|中和剤、散布完了



 王都の朝は、だいたい二種類に分かれる。


 ひとつは、鳩が穀物をついばみ、パン屋が窯を開け、洗濯物が平和に揺れる、たいへん健全な朝。

 もうひとつは、通行人の九割が夢見心地の顔で空を見上げ、花屋の店先に置かれた薔薇が必要以上に艶めき、衛兵が職務中にもかかわらず「今日って愛について考えるのに向いてますよね」と言い出す、たいへん不健全な朝だ。


 そして本日も、後者だった。


「重症ねえ」

「重症ですね」


 私は研究棟の窓から通りを見下ろし、淡々と記録した。

 大通りでは肉屋の息子が花束を三つ抱えて走り、向かいの帽子屋の店主が鏡に向かって前髪を整え続け、なぜか噴水の縁に座った老人が「若い頃を思い出すのう」と頬を染めている。


 全体として見苦しい。


 机の上の蒸留装置では、昨夜採取した香気成分が細い硝子管を伝い、ぽたり、ぽたりと受器へ落ちていた。透明。やや粘性あり。匂いは薄いが、薄いくせに妙に自己主張が強い。まるで社交界の新興貴族みたいな液体だ。


 ノーラが白衣の袖で鼻を押さえながら、覗き込む。


「これ、本当にただの香り成分?」

「ただの香りで王都の衛兵は恋愛詩を朗読しないわ」

「今朝、門番が通行証を確認しながら『あなたの瞳は青銅の湖』って言ってきたんだけど」

「災難だったわね」

「しかも私、茶色い目なのよ」

「精度の低い魅了ね」


 私は受器の液を一滴、銀板へ落とした。薄く煙が立つ。魔素反応は明確。精神誘引性の媒質に、拡散補助の揮発成分が重なっている。性質としてはフェロモンに近い。ただし自然界のものよりずっと悪質だ。虫の誘引剤が人間社会を学んで出世したら、たぶんこうなる。


「成分、三層に分かれてる」

「三層?」

「表層は香気。中層は感情の弛緩。核にあるのが……執着の誘導」


 ノーラが嫌そうな顔をした。


「うわ」

「うわね」

「聖女っていうか、害虫駆除の説明書に載ってそう」

「だから研究しがいがあるのよ」


 私は扇を開いた。昨夜の舞踏会で使用したものだ。要の部分にまだ微量の残留がある。個体A-07は扇越しに会話したとき、呼気に乗せて濃い成分を放出していた。ならば、次も同じ機会を作ればいい。


「今夜も舞踏会がある」

「王宮、最近イベント多すぎない?」

「異常発生源が社交の中心にいるのだから当然よ。貴族は理由があるとすぐ踊る」

「理由がなくても踊るけどね」


 それはそう。


 私は白板に簡単な式を書いた。

 揮発成分を中和し、感情弛緩を切り、執着誘導だけを封じる。完全な無効化より、まずは拡散性の高い一次中和剤を作るほうが早い。王都全域に撒くなら、効果と即効性が優先だ。


「ノーラ、昨夜の空気試料を全部出して」

「はいはい」

「あと、魔素吸着炭と月見草エキス」

「え、月見草?」

「芳香系の結合を一度騙す」

「たまに君の説明、理屈がわかるのに気持ちはわからないのよね」


 理解される必要はない。効けばよい。


 午前は蒸留。

 昼は沈殿。

 午後は三回失敗した。


 一回目は、受器の液が泡立って研究室の天井まで吹き上がった。

 二回目は、中和どころか室内の恋愛感情だけを局所的に増幅し、隣室の薬草学者と骨格標本が熱い視線で見つめ合う事故が起きた。

 三回目は、ノーラの前髪だけを異様につやつやにした。


「何これ」

「副作用」

「いやよ、艶だけ高貴になっても」

「でも少し似合うわ」

「今だけちょっと許す」


 私は額を押さえ、試験紙の色変化を見た。

 核の成分がしぶとい。分解しようとすると、全体が逃げる。まるで追い詰めるほど愛想よくなる厄介な相手だ。


 夕刻、扉が叩かれた。


「入って」


 現れたのはレオナルトだった。今日は正装ではなく、執務帰りの軽い上着姿だ。目の下に薄く疲れがある。昨日より顔色はいいが、まだ完全ではない。


「噂を聞いた。研究棟で爆発があったと」

「誇張です。二回です」

「回数の問題ではない」


 彼は室内を見回した。硝子器具、乾燥棚、書き散らした式、黒板一面の矢印、机の隅に転がる“失敗作・前髪だけ艶出し液”。


「……君はいつも、どうしてそう、戦場みたいな部屋で平然としているんだ」

「研究はだいたい戦争です」

「何と戦っている?」

「無知と外来種」

「怖いな」


 私は彼に椅子を勧めた。彼は腰を下ろしながら、机上の試験管を覗く。


「それが対抗策か」

「ええ。おそらく今夜中に完成する」

「王都じゅうに撒くつもりだと聞いたが」

「その予定です」

「ずいぶん大掛かりだな」

「殿下を含め、王都の知性が広範囲に損なわれていますので」

「私をサンプル数の一に含めるな」


 私はちらりと彼を見た。


「ですが、昨夜より瞳孔反応は安定しています」

「今、観察したな」

「もちろんです」


 レオナルトはため息をつき、それでも口元だけは少し笑った。


「君は本当に、私を見る目がずっと変わらない」

「変える必要がありますか」

「普通はもう少し甘くなるらしい」

「糖分の過剰摂取は体に悪いです」

「そういう話ではない」


 そういう話ではないのだろうが、そういう話にしか聞こえない。

 私は薬液を撹拌しながら、彼の横顔を見る。


 レオナルトはこの国の王族らしく、王都の魔素環境に最適化されている。つまり、外から強く押し込まれる作用に弱い。珍しく、美しく、脆い。環境が変われば真っ先に影響を受ける。守るべき固有種という認識は、今日も揺らがない。


「殿下」

「なんだ」

「今夜はできるだけA-07に近づかないでください」

「またその番号で呼ぶのか」

「現時点では最も正確な名称です」

「正確であれば何でも許されると思っていないか」

「だいたい許されます」


 彼が何か言い返す前に、机上の液がふっと青白く光った。


 私は手を止める。

 光の筋が一度揺れ、次の瞬間、すうっと透明に戻った。


「……できた」

「今ので?」

「ええ」


 ノーラが奥から走ってくる。


「本当に!?」

「試験紙」

「はいっ」


 滴下。

 一拍。

 二拍。


 赤だった試験紙が、ゆっくり白へ戻る。


 私は息を吐いた。


「一次中和剤、完成」

「うわ、本当にやった」

「やったわね」

「今日いちばん輝いてる」

「そう?」

「目が怖いけど」


 怖くて結構。勝てる時の学者は、だいたい少し怖い。


 夜の舞踏会は、昨夜よりさらに人が多かった。

 皆、聖女を見たがっている。あるいは見られたがっている。被害者が行列を作るのだから、外来種としては効率が良すぎる。


 私は銀の小瓶を扇の裏へ仕込み、大広間の壁際に立った。

 楽団の演奏、照明、囁き声。空気は相変わらず甘い。だが今夜は解析済みだ。未知が既知へ変わるだけで、人はずいぶん冷静になれる。


 階段の上から、A-07が現れる。

 白いドレス、微笑、完璧な角度。昨日とほとんど同じ演出だ。再現性が高い。優秀だが芸が細かすぎて、逆に実験条件としてありがたい。


 周囲がざわめく。

 私は扇を上げ、呼気の流れを測る。


 彼女はゆっくり人の輪を進み、やがてこちらへ来た。


「エレオノーラ様。今夜もお会いできて嬉しいです」


 甘い声。

 甘い香り。

 採集条件、良好。


「ええ。こちらこそ」

「昨夜は、分類のお話が印象的でしたわ」

「覚えていてくださって光栄です」

「わたし、まだ未定なのですね?」


 私は微笑んだ。


「現段階では」


 彼女が一歩近づく。

 周囲の貴族がまたとろりと表情を緩める。十分に濃い。今だ。


 扇を閉じるふりで、小瓶の栓を弾く。

 霧のような中和剤が、彼女の放つ香気へ薄く混ざった。


 変化は一瞬だった。


 最初に、近くの侯爵夫人が「……あら?」と首を傾げる。

 続いて若い騎士が瞬きを繰り返し、「私はなぜ柱に向かって微笑んでいた?」と真顔に戻る。

 その隣では楽団の指揮者が唐突に正気へ返り、自分が三拍子を五拍子で振っていたことに気づいて顔面蒼白になった。


 いい。効いている。


 私は袖の内で濃度計を見る。

 精神誘引波形が急速に落ちていく。香気は残るが、核が切れた。執着の糸がほどけている。


 A-07の瞳が、わずかに見開かれた。


「……何を、なさいましたの?」


「中和です」

「ちゅうわ」

「ええ。王都の衛生管理の一環として」


 あくまで穏やかに答える。

 周囲では、正気を取り戻した貴族たちがざわつき始めていた。


「えっ、私さっきまで何を」

「君のことを運命だと思っていた気がするが、今見ると初対面だな」

「私は……ああ、頭が……」


 被害者の回復は概ね良好。

 混乱はあるが、思考能力は戻っている。


 その中で、レオナルトが人波を分けてこちらへ来た。

 彼の視線は澄んでいた。昨日のような揺れがない。


「エレオノーラ」

「正気ですか」

「ずいぶんな確認だな」

「必要な確認です」

「では答えよう。私は正気だ。そして、ようやく頭の中の霧が晴れた気分だ」


 よろしい。固有種、保全成功。


 私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 レオナルトはそれに気づいたのか、目元を和らげる。


「ありがとう」

「当然のことをしたまでです」

「君はそう言うと思った」


 A-07がその様子を見ていた。

 さっきまで完璧だった微笑が、微細に軋んでいる。口角は上がっているのに、瞳だけが静かに冷えていた。


 変だ。


 香気は弱まっている。

 なのに、彼女の周囲だけ、別種の圧がある。


 私は無意識に濃度計を見た。

 波形が、一度落ち着いたあと、違う形で立ち上がっている。


 単純なフェロモン拡散型ではない。

 別の回路が起動しかけている。


「……なるほど」


 彼女が小さく呟く。

 その声には、昨夜までの柔らかい甘さとは別の硬質な響きがあった。


「あなた、こういうことをなさる方なのですね」

「研究者ですので」

「わたしを、嫌っていらっしゃるの?」

「いいえ」


 私は首を振った。


「私はあなたを憎んでいない。ただ分類しているだけです」


 一瞬、周囲の空気が止まった気がした。

 ノーラが遠くで口元を押さえている。たぶん笑いを堪えているのではなく、「また言った」という顔だ。


 A-07は私を見つめた。

 その瞳の奥に、今までになかった光が宿る。

 感情というより、反応。追い詰められた生物が環境へ適応する直前の、あの妙に澄んだ光だ。


 ぞくり、とした。


 勝った。

 少なくとも第一段階では。


 だが、生物は追い詰めるほど変わる。

 それを私は、嫌というほど知っている。


 舞踏会のあと、王都全域へ中和剤の散布が行われた。

 噴水、通り、衛兵詰所、王宮の回廊。夜半には風に乗って薄く広がり、甘ったるい空気はようやく洗い流されていった。


 翌朝。


 鳩は普通に穀物をついばみ、肉屋の息子は花束ではなく肉を抱え、老人は噴水の縁で現実的な腰痛を訴えていた。実に健康的な王都である。


 研究棟に戻ると、学会長が待っていた。

 白い髭を撫でながら、机の上の報告書と中和剤の試料を見比べている。


「見事だ、エレオノーラ君」

「ありがとうございます」

「王都の混乱を一夜で鎮めた。これは十分に論文化できる」

「まだ一次結果です」

「それでも価値は高い。魔態系学会として正式に記録を残そう」


 学術的勝利。

 実に結構。


 だが私は、素直に頷けなかった。


 窓辺に置いた試験皿の表面で、昨夜採取したA-07由来の残留魔素が、昨日とは違う脈動を刻んでいる。

 中和されたはずの後に出てきた、別の反応。

 香りではない。拡散でもない。もっと直接的で、もっと個体に寄った何か。


 学会長が私の視線を追う。


「何か気になるかね」

「ええ」

「中和は成功したのだろう?」

「しました」


 私は硝子皿を持ち上げた。

 薄い光が、内側からぴくりと揺れる。


「ですが、観察個体に想定外の変異を確認しました」


 ノーラが横で顔をしかめる。


「勝ったと思ったのにねえ」

「生き物はそう簡単に終わらないわ」

「それ、敵に言う台詞としてはだいぶ怖いよ」


 私は観察手帳を開き、新しい頁に記す。


 中和剤散布、完了。

 王都の魅了現象、沈静化。

 個体A-07、一次対抗策への反応あり。

 ただし――


 ペン先が、紙の上で静かに止まる。


 窓の外では、正気に戻った王都が忙しく動き始めていた。

 平穏は戻った。

 だからこそ、その底で動く異変がよく見える。


 私はインクを継ぎ、淡々と書き足した。


 観察個体、想定外の変異を確認。

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