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第1回|固有種、異変を観測す



 王都の朝は、だいたい二種類に分かれる。


 ひとつは、焼きたての白パンの香りと、石畳を洗う水の匂いが混ざる、平穏で大変に無害な朝。

 もうひとつは、路地裏の苔が一晩で紫に変色し、街路樹の葉脈が薄く発光し、噴水の金魚がなぜか宙を三寸ほど浮遊する、面倒で大変に有害な朝だ。


 そして本日は、後者だった。


「浮いてるわねえ」

「浮いておりますね」


 私は噴水の縁に片膝をつき、真鍮製の魔素濃度計を水面へ差し入れた。針が、ち、ち、ち、と気取った音を立てて震え、ためらいなく危険域へ滑り込む。


 周囲では市場の商人たちが忙しなく騒いでいた。


「おい、うちのキャベツが光ってるぞ!」

「こっちは勝手に回転してる!」

「どっちが高く売れるんだ!」

「知らないわよ!」


 よい。実によい騒ぎだ。異変は派手なほど発生源を追いやすい。


「ノーラ、記録」

「はいはい。『王都中央三区、午前七時三十二分。噴水周辺の魔素濃度、通常値の三・八倍。金魚、浮遊。キャベツ、発光。市場関係者、元気』」

「最後の一文は不要よ」

「でも重要じゃない? 王都の民は環境適応力が高いってわかるもの」


 同僚のノーラは悪びれず、観察手帳の端に小さく笑い顔まで描き足した。あとで消させよう。


 私はルーペ越しに水面を観察した。微細な光の粒子が、噴水から外へ、まるで香水のように拡散している。流れは自然発生にしては整いすぎていた。濃度の偏りも露骨だ。これは事故ではない。発生源は“何か”であり、“誰か”である可能性が高い。


「夜会ね」

「まだ朝だけど?」

「夜会よ。今夜の王宮舞踏会に異常発生源がいる」

「うわ、最悪。私は白衣で出たい」

「私もそうしたいけれど、宮廷は学問にだけは厳粛で、学者には礼装を要求するの」


 王都は今日も間違っている。


 立ち上がった拍子に、腰のベルトへ吊るした小瓶が触れ合って鳴った。消臭剤、採集用保存液、簡易中和粉末。それらは淑女の装いにあるまじき実用性を誇っている。


 ノーラが私の横顔を見上げた。


「そんな顔してると、また殿下に『可愛げがない』って言われるわよ」

「婚約者殿は、私に可愛げではなく持続可能性を求めるべきだわ」

「その返答がもう可愛くないのよ」


 持続可能性は大事だ。とくに婚約関係は。


 私の婚約者、レオナルト第二王子は、見た目だけならたいへん華やかな生き物である。柔らかな金髪に、空色の瞳。笑えば周囲が勝手に春になる。だが生態的にはきわめて繊細で、強い魔素環境にも、強い精神干渉にも、たぶん強い香辛料にも弱い。


 私は彼を、恋愛感情より先に保護対象として認識している節がある。


 そしてその認識は、今まで一度も外れたことがない。


 夜。


 王宮の大広間は、磨き上げられた床にシャンデリアの光を砕き散らし、宝石箱をひっくり返したように人であふれていた。笑い声、楽団の弦、香水、蝋燭、酒。情報量が多い。研究棟の実験室のほうが五倍落ち着く。


 私は銀灰色のドレスの裾をつまみ、扇の内側に仕込んだ薄膜採集紙を指先で確かめた。ノーラが離れた柱の陰から親指を立てる。礼装の上に白衣を羽織れないことへの未練が、顔ににじんでいる。


「エレオノーラ」


 聞き慣れた声に振り向くと、レオナルトがいた。正装の黒がよく似合っている。似合いすぎていて腹立たしい。


「今夜も仕事をする顔だな」

「仕事をしに来ましたので」

「少しは私との再会を喜ぶ素振りを見せてくれてもいい」

「では、再会できて無事で安心しました。以上です」

「報告書か?」


 彼は呆れたように笑ったが、その笑みの端には微かな疲労が混じっていた。顔色も、ほんのわずかに白い。やはり王都の魔素異常の影響を受けている。


 私は一歩近づき、彼の瞳孔と呼吸の間隔を観察した。


「……何を見ている」

「体調」

「婚約者を見る目ではないな」

「むしろ婚約者だから見るのです。殿下は希少ですから」

「私を珍獣扱いするのはやめなさい」


 珍獣ではない。固有種だ。


 この国の王族は古くから土地の魔素に適応しており、とくにレオナルトはその系譜が濃い。言い換えれば、環境変化に弱い。新しい病原、外来の呪式、未知の誘惑。そういう“外”から来るものに対して脆い。


 守るべきものは、美しいものより、壊れやすいものだ。


「無理はなさらないで。少しでも頭痛や倦怠感があれば、すぐに退席を」

「君はいつも私に安静を命じるな」

「健康な個体は長期観察が可能です」

「やはり観察か」


 そのときだった。


 大広間の空気が、ふっと甘く変わった。


 花の匂いに似ている。だが実際の花より、ずっと都合がよすぎる香りだった。嗅いだ者の記憶から、いちばん幸福だった春だけを選んで煮詰めたような、そんな不自然な甘さ。


 楽団の音が一拍遅れ、貴婦人たちの扇がぴたりと止まる。男たちの視線が、一斉に同じ方向へ流れた。


 階段の上に、少女が立っていた。


 白金の髪。夜明け色の瞳。胸元から裾へ落ちる淡い刺繍は、聖堂画の光輪を布にしたようだ。あまりにも“それらしく”整いすぎている。神秘性というものは、通常もう少し慎みがある。


「……転生聖女」

 誰かが恍惚と呟いた。


 ああ、なるほど。最近社交界を騒がせていた噂の中心。異国から現れ、奇跡を示し、人心を掴んだ存在。


 私は魔素濃度計を袖の内で起動した。針が、壊れたように振り切れる。


 原因、発見。


 彼女が一歩進むたび、周囲の空気が薄くきらめいた。目に見えるほど濃い魔素放出。しかも分布が妙だ。広く拡散しているのに、中心に近い者ほど表情が緩む。これは単なる高濃度魔素ではない。精神系の誘引作用が混じっている。


 私は扇を口元へ当て、呼吸を浅くした。香気成分を採る。採集紙がじわりと色を変える。


 レオナルトが、私の隣で半歩前に出た。


 目の焦点が、少しだけ甘い。


「殿下」

「……いや」


 彼はこめかみに手を当てた。踏みとどまっている。だが危うい。春の嵐に耐える若木のようだ。


 対して周囲の貴族たちは、見事なまでに咲き乱れていた。老練な宰相補佐が胸を押さえて赤面し、先ほどまで税制の話をしていた伯爵夫人が「なんて清らかな方……」と呟いている。たいへん見苦しい。


 階段を下りてきた聖女は、柔らかな笑みを浮かべていた。よく訓練された微笑だ。視線の配り方も完璧で、誰もが「今、自分を見た」と錯覚する絶妙な角度を心得ている。


 営業能力が高い外来種は厄介である。


 彼女の瞳が、私に向いた。


「あなたが、エレオノーラ様?」


 鈴を転がすような声。耳に優しい。優しすぎる。私は一礼した。


「ええ。魔態系学会所属、エレオノーラ・ヴァルブルクです」

「まあ、学者さまなのですね。難しいことはわからないのですが、わたし、この世界の皆さまと仲良くしたくて……」


 自称“難しいことはわからない”者に限って、状況を一番ややこしくする。


 彼女がさらに一歩近づく。甘い香りが濃くなった。周囲の貴族たちがうっとりと息をつく。


 だが、私には何も起きない。


 少し甘い。少し強い。鼻の奥に残る。以上だ。


 聖女の笑みが、ほんのわずかに揺れた。効かないと気づいたのだろう。興味深い。


「……不思議ですわ。エレオノーラ様は、とても落ち着いていらっしゃるのですね」

「観察中ですので」

「かんさつ?」

「はい。大変貴重な事例ですから」

「まあ」


 まあ、ではない。


 私は扇を開き、にこやかに続けた。


「ご安心ください。まだ分類は保留です」

「ぶんるい?」

「ええ。現段階では未定です」


 隣でノーラが吹き出しそうになっている気配がした。耐えなさい。


 レオナルトが低い声で囁く。


「エレオノーラ、君はもう少し言い方を選べ」

「選んだ結果です」

「選んでそれか」


 聖女は困ったように首を傾げた。そのしぐさでまた周囲がざわめく。面白いほど単純だ。私はむしろ感心した。この個体、誘引行動があまりに洗練されている。生得的なものか、後天的な演技か、あるいはその両方か。


 王宮侍従が紹介の口上を述べ、楽団が再び演奏を始める。聖女は人々の輪へ取り囲まれていった。まるで灯火に群がる羽虫だ。いや、灯火のほうが少し気の毒かもしれない。


 私はレオナルトの袖を軽く引いた。


「外気に当たってください。今すぐ」

「命令口調だな」

「研究対象が倒れると困ります」

「婚約者だと言い直す気は?」

「今はありません」


 彼は苦笑しながらも従った。よろしい。従順なのは生存率を上げる美徳である。


 バルコニーへ出ると、夜風が熱を奪っていった。室内の甘い香気が薄れ、レオナルトの表情が少しずつ冴える。


「……助かった」

「やはり影響を受けていましたか」

「夢を見ているようだった。ひどく幸福で、何も考えなくてよくなる感じだ」

「最悪ですね」

「そこまで言うか」

「思考停止は生物の終わりの始まりです」


 私は彼の脈を取った。速いが、危険域ではない。皮膚温も許容範囲。ひとまず安定。


 レオナルトは私の顔を見下ろし、ふと真面目な声になった。


「君は、本当に何ともないんだな」

「ええ」

「なぜだ」

「まだわかりません」

「まだ?」


 私は彼の手を離し、夜会の灯りを振り返った。


「ですが、理由はあります。理由のない現象はありませんから」


 それだけ言って、大広間へ戻る。今夜の収穫は十分だ。発生源は特定した。精神誘引型の魔素干渉を確認。婚約者は脆弱だが保全可能。私には効果がない。


 つまり、研究価値が高い。


 王宮を辞したのは、鐘が二つ鳴るころだった。研究棟の自室へ戻るなり、私はドレスのまま机へ向かった。ノーラが蒸留灯に火を入れ、採集紙をピンセットで差し出す。


「で、どう?」

「面白いわ」

「それは危険って意味?」

「もちろん」


 観察手帳を開く。羊皮紙のざらりとした感触が、思考を整える。


 項目を刻む。


 発生地点。

 個体外見。

 放出魔素濃度。

 精神干渉の有無。

 対象群の反応差。

 固有種への影響。


 最後に、私はペン先を止めず、淡々と記した。


【個体番号A-07/分類未定/外来種疑い】


 インクが紙へ沈む。記録は、判断より先に世界を固定する。


 ノーラが横から覗き込み、口笛を吹いた。


「ついに番号つけたのね」

「ええ」

「相手、一応は聖女さまなんだけど」

「だから何?」

「いや、君って本当に容赦ないなって」


 私はルーペを置き、採集紙の変色を光に透かした。


 甘い香りの残滓。その構造はまだ見えない。だが輪郭はある。単離できる。式に落とせる。式に落ちるなら、解ける。


 窓の外で、王都の夜景が淡く揺れていた。遠くの街灯に、小さな虫が何匹も集まっている。


 私は手帳を閉じた。


「このフェロモン、化学式が単離できる」

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