32
湖畔での一件以来、エリシアとオスカーの間はほんの少しギクシャクすることになった。
とはいえ、そのギクシャクも悪い方向にではないことはエリシアも何となく察していた。
互いに顔を見合わせると気まずいのだが、その気まずさはマイナスの感情ではなくどこかくすぐったく心が跳ねるような感情から来るものだ。
互いに距離を見計らっているような感覚と言い換えてもいい。
彼と近づきたい。もっとそばに行きたい。けれども近づきすると鼓動がドキドキしすぎて壊れてしまいそうで怖い。
向こうも同じなのだろうか。
前に比べてどこかソワソワとしつつも、エリシアに対してより慎重に距離を計るようになった。
彼がエリシアを傷つけないように慎重に距離を計ってくれているのだとわかるからこそ、エリシアももっと彼に近づきたくなって触れてもいいかと聞くことが増えた。
その度に彼がおずおずと差し出してくれる手のひらがとても嬉しいーー愛おしい、と思う。
そんな風に互いに距離をどう詰めようかと見計らう日々を続けて、しばらくの後。
「ーー王子妃教育、ですか」
王都から来た使者に告げられた言葉をエリシアは繰り返した。
エリシアの繰り返した言葉に使者は頷く。
「はい。先日、エーヴェルシュタインからの報告で想定以上に第一王子殿下の呪いの解析が進んでいたことがわかりました。呪いが解けることが現実的に見えてきた今、エリシア様は近いうちに第一王子殿下と王都へとお戻りになり、王族の一員として振る舞っていただくことになりましょう。そのため、今のうちにその準備をしていただきたいのです」
王族の一員、という言葉にエリシアは思わず怯んだように背を竦めていた。
ここにいる間は意識をしたことはなかったが、確かにオスカーの妃になるということはそういうことなのだ。
そのことを意識した途端、自分にできるのだろうかと不安が込み上げて膝の上で組んだ手をぎゅうと握ってしまう。
「……それはここに講師が派遣されてくるということか?」
「いえ、王妃様が手ずから教育をしたいと。ですのでまずは三月ほど王都でエリシア様の身を預からせてほしいと」
オスカーの問いに使者がそう答える。
三月。その言葉にエリシアはさらに組んだ手に力を込めた。
三月もオスカーと離れ離れになるかと思うと胸がぎゅうと潰されそうだった。
「エリシア……」
オスカーが気遣わしげにエリシアを見た。
その視線を見返し、エリシアはどう答えるべきか思い悩んだ。
オスカーのそばにいたい。三月も彼と離れ離れになるだなんて嫌だ。
それが率直なエリシアの想いだった。
だが、けれども。同時にこの一時的な感情で断るわけにはいかないともわかっていた。
使者はこう言ったのだ。
いずれオスカーと共に王都に戻り、王族の一員として振る舞うための準備をしてほしいと。
それはつまりオスカーが元に戻った後もエリシアが彼の妃として在る未来のために準備をしてほしいということだ。
「……わかりました。王都に参ります」
「エリシア」
使者に頷いたエリシアにオスカーがそう呼ぶ。
何をどう言えばいいのかわからず、少しだけ情けない顔をしているオスカーを見て、エリシアは微笑む。
「殿下、たったの三月です。この先もあなたの妃として相応しく在るために学び、必ずあなたの元に戻ります」
何も言わないオスカーの手にエリシアは触れる。
鋭い鉤爪がある厚い皮に覆われた手のひらを包むには相変わらず自分の手は小さく頼りなかったけれども、それでもエリシアは自分の想いを伝えるように彼の手のひらを握りしめた。
「だから一時的にあなたのそばを離れることをどうかお許しください」
まっすぐとオスカーを見つめて伝えれば、彼の瞳はエリシアを見つめたままほんの少し揺れた。
けれどもやがて彼は力なく微笑むように口角を上げた。
「……エリシア、君がそうと決めたのなら俺は応援するだけだよ。ただ無理だけはしないようにな」
「はい」
オスカーの言葉にエリシアは頷く。
ほんの少しだけエリシアの手の中のオスカーの手のひらがひくりと動いた気がした。
けれどもその手のひらは結局小さく動いただけでそれ以上動くことはなかった。




