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しん、と静まった夜更け。
ランタンの灯りだけが小さく揺れる最中、エリシアはようやく刺繍する手を止めた。
酷使して疲れた目をほぐすように目頭を揉むと頭の奥がズキズキと痛む感覚を自覚した。
ふう、と吐いた呼気が大きなため息になる。
頭が痛いのは眼精疲労のせいだけではない。
ナディアのこともある。
ナディア。
エリシアのたったひとりの妹。
彼女はエリシアと違って勝ち気で、両親に反発してばかりの娘だった。
自由、と言えば聞こえはいいが、彼女は貴族淑女としてはとにかく奔放だった。
刺繍や編み物よりは外に出て駆け回ることを好み、思っていることをズバズバと口にするような娘だった。
そんな娘だから両親も手を焼き、大声で罵り合うような喧嘩もしょっちゅうだ。
だが、けれども明日からはそんな怒号が響き渡ることもなくなるのだろうか。
数週間前に父親とナディアが喧嘩をしていたあの日。
あの日の晩餐でエリシアは二人の喧嘩の理由を知った。
ナディアの輿入れ先を父親が決めてきたのだ。
輿入れ先はなんと王家だ。
だがエインズワース伯爵家のようなただの伯爵家が輿入れするだけあって、相手は当然のように曰くつきだった。
オスカー・アストレイ第一王子。
かつては光り輝かんばかりの麗しい美貌と思慮深さを兼ね備えた完璧な王子だった。
そんな彼は元々隣国の魔法国エーヴェルシュタインの末姫を婚約者に迎え、王太子としての地位も盤石だった。
けれどもそれが崩れたのが二年ほど前。
オスカー・アストレイ第一王子の美貌はあまりにも女性の心を虜にした。
その姿、立ち振る舞い。そのすべてに心を奪われる貴婦人や令嬢は後を絶たず、それ故に婚約者であるエーヴェルシュタインの末姫の悋気が燃えたのだ。
『わたくし以外の女を侍らせて笑うなんて!』
エーヴェルシュタインの末姫はそう叫び、感情のままに自身の身に秘めた魔力をオスカー・アストレイ第一王子に浴びせた。
感情だけで暴発させた魔力は呪いとなってオスカー・アストレイ第一王子に降りかかった。
その結果、彼の体は膨れ上がり、もはや人ではない身の毛もよだつ悍ましい怪物の姿と変貌した。
エーヴェルシュタインの末姫にかけられた呪いは彼女自身もコントロールできない感情から浴びせられたものであり、彼女自身にも解かせることができなかった。
彼女の故国であるエーヴェルシュタインの者たちも同様。
そのためにオスカー・アストレイ第一王子が堂々と真ん中を歩んでいた輝かしい道は閉ざされ、彼はその醜い姿を遠い辺境の領地に隠すことになった。
オスカー・アストレイ第一王子は今やその身に起きた悲劇から自暴自棄となり、辺境の地で本物の魔獣のように暴れ回っているという。
そんな曰くつきの相手。
輿入れとはいうが、要は体のいい世話係であり、王家としての体裁を整えるための結婚だ。
だからこそ呪いをかけたエーヴェルシュタインの末姫との婚約破棄となった後、オスカー・アストレイ第一王子との縁談はなかなか纏まることはなかった。
相手がいくら第一王子とはいえ、呪われ魔獣に成り果てた姿。危険で不便な辺境の地。そして何より魔獣相手に世継ぎなど見込めず繋がる利があまりにも薄い。
そんなところへ嫁ぎたいと思う奇特な娘などそうおらず、可愛い娘を嫁がせたい親もいないだろう。
そこまで考えて、エリシアは首を横に振る。
それでも父親はナディアにこの縁談を持ってきた。
自分の言うことを聞かず、何を言っても反発する娘。
確かに普通なら輿入れする利は薄いけれど、呪われた悲劇の王子に奉仕させるため泣く泣く娘を送り出す。そんな美談で王家に恩を売れば、不要な娘が少しでも利にはなる。
そんな考えが掠めた自分がどうしようもなく嫌だった。
エリシアは刺繍を片付け、ランタンを携えて席を立つ。
夜更かしをしているから変な考えが頭を巡るのだ。
今日は水を飲み、頭を冷やして早く寝てしまおう。
明日はナディアの輿入れで忙しいのだから。




