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「君に怪我がないなら、いいんだ」
怪物が怪我の有無を問うた時と同じトーンで語りかけてくる。
彼は膝を折り、できるだけ大きな体を縮こめようと屈み込む。
大きな犬が伏せをするような姿だった。
「怖かったろう。さあ、城に戻って。俺は君が危険な目に遭わないよう、ゆっくり追いかけるから」
怪物は決してエリシアに手を差し出しはしなかった。
彼の両の手は地面に伏せるように置かれ、地面に縫い留めるかのよう。
それが血に塗れていることに気がついて、彼が手を差し出さない理由も、エリシアに寄り添えない事情も察した。
「…………ど、して……」
掠れた声が喉からこぼれ落ちた。
「……どうして……」
それ以上が言葉にならない。
嗚咽が込み上げ、エリシアはみっともない声を噛み殺すように奥歯を噛んで俯く。
「どうして?」
オスカーがエリシアの言葉を繰り返した。
「どうしてここに、という意味かな? この体になってから睡眠をあまり必要としなくてな。だから夜警に代わって夜廻をしているんだ。ああ、塀はどうしたって意味? ははは、通用門はくぐれなくてもあのくらい飛び越えられるんだ。ただ塀を蹴った時にちょっとヒビを入れてしまって……これは内緒だぞ」
おどけるオスカーの言葉ははぐらかしているように聞こえた。
ふざけるようなオスカーの態度は空虚な自分に「いらない」という決定的なトドメを与えない気遣いのように感じて、ジクジクと胸に穿たれた傷が痛みをこぼす。
「…………なぜ、私を……救ったのですか」
このまま真綿でジワジワと締め上げられるような優しさに包まれたくなくて、エリシアはそう口に出していた。
「私は望まれなかった妃でしょう。このまま捨て置いて処分なさってくれた方がどれだけ良かったか……」
「エリシア」
掠れた声で訴えるエリシアをオスカーの声が遮った。
「何故そんな悲しいことを言うんだ」
オスカーの眉間にシワが寄り、大きな耳がぱたりと寝た。
獣が威嚇するような顔つきだったが、今の彼は怒っているというよりは悲しんでいるようだった。
「そこまで思い詰めるなんて……一体君に何があったんだ」
その問いにエリシアは胸元を握る手にぎゅうと力を込め、俯く。
「…………殿下と王妃殿下がお話されているのを聞いてしまいました。私ではなくナディアを……妹をあなたの妃に据えたかったのだと」
声が震える。
「ナディアは、実家では厄介者だったんです。両親に何かと反発して、淑女らしくないことを繰り返して、ほとんど家にもいなくて……あの子があなたの妃になるんだと聞いた時、いらない娘を少しでも王家に恩を売るための道具にするための婚姻なんだ、と思いました。でもあの子は逃げて、王家との約束を反故するわけにはいかないと私が代わりに嫁がされました。でもあなたの妃になる人は誰でも良かったわけじゃなくて、本当はナディアが良かったって……」
「エリシア……」
「ナディアは捨てられるんじゃなくて望まれて拾われるはずだったんだと思ったら、代わりに嫁がされたり私は何なんだろうって……ただの迷惑な厄介者で……でも今更エインズワース伯爵家にも戻れないんです。父も母もあれほど私に“お前は跡取り娘だ”と言い聞かせていたはずなのに、嫁いでから全然便りもくれない。きっと跡取りなんて私でなくても良かった。私は両親にとって代わりのきかない存在ではなかった」
そして多分、そのことを自分は薄々気がついていた。
それでも父に、母にしがみつくためにそのことを見ない振りをして二人に従っていた。
二人に愛されていると思い込みたかった。
大切な両親だから。
そんな自分とは対照的にナディアはとっくの昔に薄情な両親に気がついて、見限っていた。
だからあんなに反発して自分が自由にできるように、あんな形で逃げて自立したのだ。
「…………認めたくないけれど、ナディアは強い子だったんです。誰かに望まれるくらいに強くて、しっかりしていた。でも私は違います。ナディアとは真逆なんです。そんな私が……ナディアと真逆の私が、ナディアが望まれた場所に立つだなんて……ごめんなさい。ナディアのようにできない私が来てしまってごめんなさい……」
顔を覆って泣くエリシアにオスカーは何も言わない。
ふとオスカーが伏せていた手を持ち上げる気配がした。
けれども彼は逡巡するようにさまよわせ、やがて改めてそっと地面に下ろした。




