第94話 内政官の帰還と親泥靴派
南部のオデール伯爵領、執務室。
長旅から帰還した内政官ウォルターを、領主のオデール伯爵が鷹揚に迎えていた。
「よく無事に戻ったな。一刻も早く、あの領で学んできた治水に役立つ『魔法』を試したいものだ」
伯爵の期待に、ウォルターは静かに首を横に振った。
「いえ閣下。恐るべきはその道作りの『工法』そのもの。魔法はあくまで補助でした」
「魔法が補助だと?」
ウォルターは泥靴村の光景を語った。粗朶マットを泥に敷き、石で沈め、土を噛み合わせて地盤を作る物理的アプローチ。魔法はその土と水の分離を早めるためだけに使われていた。
報告を聞くにつれ、オデール伯爵の表情が驚きへと変わっていく。
「自然の猛威を魔力でねじ伏せるのではなく、理を利用して押さえ込むというのか……。信じられん。それを考え出したのは、フェルメールの当主か? それとも、マルコの報告の通り、背後に強力なパトロンか賢者でも囲っているのか?」
「いいえ、閣下。パトロンなどおりません。それをすべて考え出しているのは、フェルメールの跡取りです」
「……跡取り? マルコが、処刑を免れ契約を得られたのは、その跡取りのおかげだと言っていたな。確か、幼児ではなかったか? その幼児自身がすべての絵図を描いているとでも言うのか!?」
「ええ。そうです。その幼児が、です。私は内政官としてそれなりに優秀であると自負していましたが、見事に挫かれました」
「そ、それほど凄いのか……。あの貧乏男爵家の跡取りは……」
「閣下、もうフェルメール家は貧乏ではありません。村では四百名近い住民が給与を得て、真新しい家々や商会が立ち並ぶ信じがたい勢いです。それに、あそこには今、他家にはない『知恵の泉』が湧いています」
ウォルターは懐から巾着袋を取り出し、紐に通された『小さな木の玉』を片手でキュッと押し上げた。
「ほう。結び目を作っていないのに止まるのか」
「はい。『摩擦』だけで実現させています。そして、この安全帽子の顎紐にも同じものが使われています」
言われて伯爵は帽子を受け取り、確かめるように裏返した。
「これは『竹のザル』ではないか!?」
「はい。こちらに戻る際、竹職人に作らせました。あちらの村では、このザルをベースにした帽子が大流行しています。私は若様と交渉し、この帽子を我が領で委託生産する約束を取り付けました。……ただし『顎紐には絶対にフェルメール指定の紐とパーツを使うこと』を条件に」
「……なるほど。手間のかかる本体は作らせ、心臓部の利権は一歩も譲らんというわけか。幼児とは思えぬえげつなさだな」
「ええ。さらに彼らは湿地の奥で温泉を掘り当てました。湧き出る五十度の熱湯に対し、彼は魔力を使わず、木枠に差し込む板の厚みを変えるだけで湯量を調節する『止水栓』を平然と作り上げていたのです」
長年の賢者すら思いつかない簡潔な仕組み。伯爵は静かな戦慄を覚えた。
「ですが閣下、これは最大の好機でもあります」
ウォルターは一転して、内政官としての鋭い目つきを取り戻した。
「閣下。彼らが今、泥沼の上に作っている『道』ですが……他の貴族たちはどう噂しているかご存知ですか?」
「フェルメールから南へ抜け、王都へ至る道を作っている……だろう? その真偽を確かめるためにマルコを潜入させたのだ。完成すれば、ボルドーの関所を通らずに済む迂回路になるからな」
オデール伯爵が言うと、ウォルターは静かに首を横に振った。
「ええ、私も最初はそう思っておりました。フェルメールから王都へ、最短距離である斜めの道を通すのだろうと。ですが、違ったのです」
ウォルターは壁に掛けられた王国の地図を指差した。
「彼らが今作っている道は、フェルメールから王都へ向かう斜めのルートではありません。湿地の『ど真ん中』に向かって西へ伸び……そこから左、つまり南へ折れているのです」
「西へ行ってから、南へ? なぜ王都へ向かうのに、面倒な回り道をしている?」
「それが彼らの恐ろしいところです。彼らの真の目的は、自領から王都への道を作ることだけではありません」
ウォルターの指が、地図上の北の穀倉地帯(ハルバード伯爵領)から、大湿地帯の中心を突き抜け、王都へと真っ直ぐ下へ直線を引いた。
「湿地のど真ん中を南北に貫く巨大な本道……北と王都を最短で結ぶ『大動脈』を作っているのです。フェルメールから西へ伸びる道は、その本道へ合流するための支線に過ぎません。彼らは大湿地帯の上に、『T』の字の形をした巨大なハイパスを構築しようとしているのです」
「なんだと……!?」
オデール伯爵は弾かれたように立ち上がり、地図を凝視した。
もしフェルメールの湿地の真ん中を南北に真っ直ぐ通すことができれば、ボルドーの関所を通る弓なりの街道を完全にショートカットできる。北の穀倉地帯から王都、そして南部へと至る距離が劇的に縮まるのだ。
「湿地の真ん中を通すだと!? ……いや、あの工法なら可能だというのか! しかし、その規模……一介の男爵家がやるようなことではない。それはもはや、国家事業ではないか!」
「その通りです。現在、我々南部の特産品を北の穀倉地帯へ運ぶには、あの強欲なボルドー子爵の関所を通り、理不尽に高い通行料を払って大回りせねばなりません。ですが、あの南北を貫く新しい道が開通すれば……我々の特産品を、今よりずっと早く、しかも安価で北部に売ることができるようになります!」
ウォルターの言葉に、オデール伯爵の目がカッと見開かれた。
「しかも、我々はすでに『技術指導』という名目で、フェルメール領に百人の労働力と多額の資金を提供し、強固な繋がりを持っています。この友好的な関係を維持し続ければ、新しい道の通行権や関税において、必ずや優遇されるはずです」
「……なるほど。あの道は、単なる迂回路ではない。ボルドー強いてはヴァロワ派の独占を完全に崩し、南北を直接繋ぐ『黄金の道』になる可能性があるわけか!」
「はい。ですから閣下。フェルメール領への支援は決して惜しんではなりません。あそこは間もなく、南北交易の重要なハブになる可能性を秘めています」
オデール伯爵は興奮を抑えきれないように立ち上がり、執務室を歩き回った。
「素晴らしい……! よくぞその価値を見抜き、関係を築いてきてくれた、ウォルター! よし、お前の進言を全面的に採用する! 粗朶に使う枝の準備を急ぎ進めろ。 黒竜川の治水を急ぐと同時に、フェルメールとの結びつきをさらに強固なものにせよ!」
「はっ! 先発隊の帰還と同時に直ちに着工を進められるよう、枝集めは既に命じております。
それと若様に約束した苗木と今が旬の珍しい筍も、竹ザルも手配し、委託生産を最速で軌道に乗せます」
ウォルターがニヤリと笑う。
(治水、物流、新事業……忙しくなりそうだ…)
心地よい疲労感を覚えながら、ウォルターは深く一礼した。
南部の地で、オデール伯爵と有能な内政官は、五歳児が握る未来に向け、『親フェルメール派』として舵を切ったのであった。
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