第93話 極楽へのS字カーブ
「ゲホッ、ゲホッ……! ……はぁ…はぁ……ッ!」
大根のように泥沼から引き抜かれたジョージが、地面に突っ伏してむせ返る。
全身ドロまみれで、目と口の周りだけが辛うじて元の肌色を保っているという、見事な泥人形っぷりだった。
「ジョージおじちゃん、めっ!だよ」
「監督、すみませんでした。気をつけます」
「お前はもう上がれ。そのままじゃ風邪を引くぞ」
ロバートが呆れたようにため息をついた。
「あそこで泥を落としてこい」
「お、温泉!? マジっすか!」
ジョージの泥だらけの顔がパァッと輝いた、その瞬間だった。
現場の空気が、ピリッと変わる。
「隊長! 俺、ちょっと足元が滑りそうな気がするっす!」
「待て、次は俺がやる! 絶対に落ちる自信がある!」
「いや俺だ! 俺が一番綺麗に飛び込める!」
作業の途中で「極上の温泉」に入れると知った男たちの間で、突如として『オレが、オレが』という醜い争奪戦が勃発した。誰もが今すぐ泥沼へダイブする気満々である。
「バカ野郎ども! 遊びじゃねえんだぞ!」
ロバートの怒号が響く。
「帰りに全員で入る! 今日のノルマが終わったら、全員で温泉だ! だから今は真面目にやれ!」
「「「うおおおおおおおおッ!!」」」
ロバートの約束(という名の人参)が提示された瞬間、ガチムチの南部衆と工兵隊の士気が、かつてないほど爆発的に跳ね上がった。
「ちょぉぉっと 待ちなさぁぁい!!」
ドスッ、ドスッと地響きを立てて、真っ黒なボンテージファッションに身を包んだ巨漢の女将――マダム・ゴンザレスが立ちはだかった。
「アンタたち、その泥だらけの汚い体のまま、アタシの神聖な温泉に入るつもり!? 絶対に許さないわよ!」
マダムが扇子をバサッと広げて威嚇する。
ロバートの顔からスッと血の気が引いた。
「えっ……だ、だめ、なの……?」
背後からは、温泉という極上の人参をぶら下げられて完全に狂戦士と化した男たちが、血走った目でロバートとマダムを睨みつけている。
今ここで「やっぱり温泉は無しだ」などと言い出せば、正気を失った彼らに何をされるか分かったものではない。ロバートの額から滝のような冷や汗が吹き出した。
そこへ、カイトがトテトテと前に出た。
「マダム、あのね、おふろに はいる まえに、おそとで どろを おとすんだよ。それから、マダム、こっちに きて!」
カイトはマダムの分厚い手を引き、温泉の木製デッキの端へと案内した。
「マダム、ここの おんせん、ながれた おゆで『どろパック』が できるように なってるの!」
カイトが指差した先。傾斜したデッキから溢れたお湯が粗朶の地面へスムーズに流れるよう排水が組まれており、温泉が泥の上を伝って沼に溜まることで、泥パック用の上質な泥が自然発生する設計になっていた。
それを見た瞬間、ゴンザレスの目が『$(ドルマーク)』に変わった。
「……無限に湧き出る、最高級の泥パック……!」
女将のえげつない皮算用が、一瞬にして怒りを凌駕した。
「やるわね、カイトちゃん!なら、デッキの上に落ちた泥は全て泥パックね!」
ゴンザレスは「コホン」と咳払いをして、扇子で口元を隠しながら戻ってきた。
「……ふん。まあ、入っても良いわよ。ただし! デッキの端っこで、その汚い泥を全部綺麗に洗い流してから湯船に入りなさい! もし一粒でも泥を湯船に入れたら……アンタたち、どうなるか分かってるわね?」
ドス黒いオーラを放つマダムの脅しに、屈強な男たちが一斉に悲鳴を上げた。
「ヒィィィッ!? ぜ、絶対に入れません!」
「よろしい! ……(これで原材料の納品作業はバッチリね)……」
マダムが満足げに頷くと、ロバートはその場にへたり込みそうになるのを必死で堪え、深く、深く息を吐き出した。
(……ふぅぅ……ふぅぅ……助かった! もし入浴を断られていたら、俺は暴動を起こしたこいつらに泥沼の底に沈められていたぞ……!)
「よし! お前ら聞いたな! 一粒でも泥を入れたら命はないと思え! その代わり、死ぬ気でノルマを終わらせて極楽へ行くぞ!」
「「「うおおおおおおッ!!」」」
(ふぉふぉふぉ! 温泉の求心力、恐るべしじゃな……。まあ、士気が上がるのは良いことじゃ)
カイトが黄色いヘルメットを直しながら見守る中、ジョージの代わりには身軽なサジが沼へ入り、マッピング作業が再開された。
やがて、馬を飛ばして村へ戻っていたマルコが帰還する。
「待たせたな! 目印になるもん、持ってきたぞ!」
マルコが抱えてきたのは、先端に赤い端切れが結びつけられた角材の束だった。
サジとガンタがそれを受け取り、先ほどジョージが立てた木の枝と入れ替えながら、さらに奥へと岩盤の縁を探っていく。
「ここも平気だ!」
「こっちはダメっす!」
泥沼の上に、等間隔で赤い目印が次々と突き立てられていく。
大きく東へと膨らむように伸びていたカーブは、やがて途中から目的地である『一段せり上がった平地』に向かって、ぐぐっと向きを変え始めた。
そして、ついに。
「隊長! 監督! 着いたぞー!!」
平地と繋がる最後の印が立てられた。
向こう岸の陸地へと上陸を果たしたガンタとサジが、力強く親指を立てて大きく手を振った。
泥沼の上に点々と続く、巨大な赤いS字のカーブ。
それは真っ直ぐ進むよりもずっと遠回りだが、その下には間違いなく、マット一枚で済む強固な『岩のテラス』が眠っている。
「よし、ルートは決まったな。このS字カーブに向かってマットを敷くぞ!」
「「「応っ!!」」」
ロバートの掛け声と共に、ガチムチ勢と工兵隊が一斉に動き出す。
目の前の道を繋げれば、極上の温泉が待っている。その事実が、男たちを完全に狂戦士へと変えていた。
ここからの作業は、まさに瞬きする間だった。
岩盤のベタ基礎、マット一枚敷き、そして「温泉」という極上の人参。
男たちから疲労という概念が完全に消え飛んだ。
「敷け! どんどん敷けぇ!!」
「石だ! 次だ、次!!」
怒号のような歓声が泥沼に響き、赤い目印に沿って粗朶マットが大蛇のように這う。
東へ大きく湾曲したルートを、馬車が全力疾走してもびくともしない強固な道が、信じられない速さで伸びていく。
そして――
日が傾く前に。
最後の一枚が、ドスッと平地に接続された。
「おわったぁぁぁぁぁっ!!」
「温泉だァァァァァァッ!!」
夕日に照らされた平地で、泥まみれの男たちが拳を突き上げ、勝利の雄叫びを上げる。
『急がば回れ』が、極楽への切符と共に、見事に体現された瞬間だった。
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