第24話 鬼監督の帰還と沈まぬ道
ここからが勝負ですね
バッカスとの嵐のような契約を終えた翌朝。
フェルメール家の一行……といっても、護衛の一人も雇えない貧乏男爵家の馬車に家族全員が身を寄せ合う、慎ましい帰還である。
昨日の魔力切れによる昏倒を心配したエレナの指示で、予備の毛布で、カイトが包まれ車内に収容されていた。
(……やれやれ。昨日は死ぬかと思うたが、一晩寝れば腹も減る。幼児の肉体というのは、不便な反面、この凄まじい回復力だけは評価せねばならんのう)
カイトは毛布の隙間から、窓の外を流れる伯爵領の美しい街並みを眺めていた。だが、馬車が進むにつれ、整えられた石畳の振動は消え、景色は次第に茶褐色の湿地帯へと塗り替えられていく。
「……やっと、帰ってきたな」
ミレーヌを抱いたアルベルトが、泥の匂いが混じり始めた風を感じて小さく呟く。
丸一日、ガタゴトと激しく揺れる改造馬車に耐え、夕刻、一行はようやく懐かしきフェルメール領の屋敷へと到着した。
屋敷の前に馬車が止まるやいなや、カイトは毛布を跳ね除けて立ち上がった。
「パパ! カイト、むらにおみやげ、おきにいく!」
「おやおや、カイト。そんなに慌てなくても……」
(お土産は口実じゃ! ワシがおらん間に、あの『粗朶道』がどこまで伸びたか……。せめて枯れ大樹のところまで届いておるか、この目で確かめんと落ち着かんわい!)
しかし、はやる気持ちで玄関へ向かおうとしたカイトの前に、音もなく「壁」が立ちはだかった。
「……カイト?」
「ひゃいっ、ママ……」
笑顔ながらも目が笑っていないエレナが、カイトの襟首をひょいとつまみ上げる。
「昨日あんなに倒れて心配させたのは、どこの誰かしら? 今日は大人しく寝なさい。いいわね?」
「……はい」
(うぐぅ……ママには勝てん。中の魂がジジイのワシでも、この圧力には逆らえんわ……)
その日の夕食後。
カイトは自分の部屋で寝るフリをしながら、這い出すようにして二階の廊下の奥にある出窓へと向かった。
窓枠に必死に手をかけ、背伸びをして村の方角を覗き込む。
(どうじゃ……? あのあたりに道が見えるはず……)
だが、街灯一つない泥靴領の夜は、文字通りの闇だった。
月明かりに照らされた湿地が鈍く光るだけで、肝心の道の進捗などこれっぽっちも見えやしない。
(……くそ、暗うて何も見えん。おまけに足が短うて窓の外が遠いわい……。致し方なし。明日まで待つとしよう……)
カイトはトボトボとベッドに戻り、深い溜息をついて眠りについた。
翌朝。カイトは今度こそ、リーザを伴って村へと繰り出した。
「カイト様、そんなに急がなくてもお塩は腐りませんよ?」
「リーザ、はやく! みちが、できてるかみたいの!」
小さな足を精一杯動かして村の入り口へ辿り着いたカイトは、そこで足を止めた。
それまで「転ばないように」と注意していたリーザも、目の前の光景に絶句し、立ち尽くした。
「カ、カイト様……これは、一体……? 泥の上に、道ができている……?」
リーザが知っていたのは、あくまで木の枝を並べた、人が歩ける程度の不安定な浮き桟橋だった。
しかし、そこに広がっていたのは、泥の中に幾重にも重なったマットの上に石や砂利が叩き込まれた、びくともしない「不動の道」だった。
(……ほう! これは驚いた。ワシがおらん間に、これほどまで……!)
そこには、以前カイトが指示した『粗朶沈床』の道が、目標にしていた「枯れ大樹」を超え、その先までまっすぐに伸びていた。
道の上では、村の男たちが活気ある声を掛け合いながら、次の工程に使う粗朶マットを次々と運び込んでいる。
「おっ、カイト坊ちゃん! お帰りなさい!」
道の先で陣頭指揮を執っていたガンタが、カイトの姿を見つけるなり、泥に汚れた顔をクシャクシャにして駆け寄ってきた。彼は腰に手を当て、胸を張って完成したばかりの道を指差す。
「カイト坊ちゃん、お帰りなさい! 見てくださいよ、監督! この道のおかげでマットを運ぶのも楽勝です!」
ガンタのその声には、自分たちの手で領地を変えているという強い自負が溢れていた。以前は数人がかりで泥に足を取られながら運んでいた重いマットも、今やこの道の上を滑るように運ばれていく。
( 素晴らしい。ワシが教えたのはきっかけに過ぎんが、ガンタたちはすでにこの『道』が自分たちの暮らしをどう変えるか、その価値を肌で理解しておるようじゃな)
「おみち、ながーい! ガンタ、すごーい!」
カイトが幼児らしい無邪気さでパチパチと手を叩くと、ガンタは照れ臭そうに鼻の下をこすりながらも、その目はさらなるやる気に満ちていた。
「へへっ、坊ちゃんの考えたこの道は、最高ですよ。これなら沼の向こうまで、あっという間に繋げられますよ!」
リーザは、目の前の光景を信じられないといった様子で見つめていた。
彼女がエレナと共にこの領地にやってきて、はや六年。元いたベルノー子爵領は豊かな穀倉地帯で、どちらかといえば水不足に悩まされるような乾いた土地だった。それだけに、この「泥靴領」の底なし沼は、彼女にとって、希望を奪い去る絶望の象徴だった。
「だ、旦那様に伝えてきます! カイト様、ここで待っていてくださいね!」
リーザは弾かれたように、屋敷のある丘に向かって駆け出した。
この六年間、一度として靴を汚さずに歩けたことのない坂道を、彼女は泥を跳ね飛ばしながら必死に駆け上がっていった。
(……やれやれ、相変わらず元気な娘じゃ。そんなに慌てんでも道は逃げやせんというのに)
カイトがそんなことを思っていると、しばらくして、丘の上から肩で息をするアルベルトと、その後を追うエレナの姿が見えた。
二人は村に降りてくるなり、真っ直ぐにカイトと、そしてその足元に伸びる「道」へと駆け寄った。
二人は道の入り口でピタリと足を止め、信じられないといった顔で固まった。
「これは……」
アルベルトの口から、掠れた声が漏れた。
彼は恐る恐る、まずは片足を砂利の上に乗せた。沈まない。続いてもう片方の足も乗せ、しっかりと体重をかける。
「お、おい、カイト。沈まないぞ。この泥の上なのに、一向に沈む気配がない!」
アルベルトは驚きのあまり、子供のように道の中心まで進むと、そこで足に力を込めてガシガシと何度も地面を踏みつけた。
本来なら、成人男性がこれだけの衝撃を加えれば、泥が噴き出して足首まで飲み込まれるはずだった。だが、道はびくともせず、確かな手応えをアルベルトの足裏に返した。
「これは一体、どうやったんだ……? 枝を沈めただけだろう? なぜ石を積んでも崩れないんだ。カイト、これは……これは本当に、凄いぞ!」
アルベルトは感心したように、カイトの小さな肩を震える手で掴んだ。
その瞳には、領主としての驚きと、親としての誇らしさが混ざり合っていた。
傍らに立つエレナは、もはや言葉も出ないようだった。
彼女が嫁いできたあの日から、この泥は決して変わることのない「呪い」のようなものだった。それを、わずか四歳の我が子が、魔法も使わずに変えてしまった。
彼女は口元に手を当てたまま、ただただ眼前に伸びる灰色の道を凝視していた。
( 魔法など使わずとも、物理の法則を正しく使えば泥など恐るるに足りん。分厚い粗朶の層が接地圧を分散させ、泥を動かさぬ土台を作り上げただけじゃい)
「パパ、このみち、つよいでしょ! これで馬車も、通れるよ」
カイトが幼児特有の高い声で無邪気に笑うと、アルベルトは何度も何度も深く頷いた。
(まずは第一段階完了じゃな。しばらく寝かせて自重で粗朶を沈み込ませてから、もう一度土を盛り直してやる必要があるが。あとは水捌けを考えて、わずかに中央を高くする勾配をつければ完璧じゃ。土木の基本は、地味な積み重ねにあるからな)
「ああ、強い。世界一強い道だ。……これなら、いける。この領地は、本当に変われるぞ!」
アルベルトの力強い言葉が、静かな湿地帯に響き渡った。
それは、泥にまみれたフェルメール家の反撃が、ここから本格的に始まることを告げるファンファーレだった。
カイトがアルベルトの服の裾をぐいぐいと引っ張りながら、自慢げに胸を張った。
「パパ、カイトのかちだよね」
その幼い瞳には、はっきりとした「勝利」の光が宿っていた。
「……ああ、負けたよカイト。私の負けだ」
アルベルトは降参だと言わんばかりに両手を上げ、苦笑した。
カイトが「道を作る」と言い出した時、アルベルトは心のどこかで、それは幼子の夢物語だと思っていた。だが目の前にあるのは、大人の男がどれほど踏みつけても沈まない、本物の「道」だった。
「パパ、お約束だよ! カイトが勝ったら、お風呂、作ってくれるんでしょ!」
アルベルトはふっと表情を緩めると、潔く、そして誇らしげに息子を見つめた。
「……ああ。私の完敗だ、カイト」
膝をつき、カイトの小さな肩にがっしりと手を置く。その手の震えは、もはや不安ではなく、未来への武者震いだった。
「勝負に負けて、これほど嬉しく思えたことなんて一度もなかった。約束だ、カイト。すぐに準備にかかろう。ロラン殿の寄進を待つまでもない。我がフェルメール領の総力を挙げて、最高のお風呂を作ろう。この道を通って、泥を落とし、みんなで未来を語れる場所をな」
カイトはニヤリと笑い、さっそく次の工程表を脳内に描き始めていたのだった。
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