第15話 泥炭サウナと風呂の約束
王都へ売るための木材を山積みにした馬車が、男爵家のある丘の手前に到着した。
「ロラン様、お待ちしておりました。……まあ、ひどいお汚れですね」
出迎えたリーザが、泥だらけのロランを見て驚きの声を上げる。ロランは木材運びの真っ最中で、実用的な旅装束は泥を被って元の色がわからない。
「ああ、悪い。馬車を道に戻すのに必死でな……これでは館に上がるのも憚られるよ」
「ふふ、ご心配なく。動かないでくださいね」
「クリーン!」
リーザが短く呪文を唱え、手をかざす。
柔らかな光の粒子がロランを包み込むと、一瞬にして泥汚れが消え去った。撥ねた泥だけでなく、汗のベタつきや馬の匂いまでもが消え、服の繊維までふんわりと蘇っている。
「……相変わらず、魔法というのは便利すぎるな。ありがとう、助かった」
それを見たカイトが、トコトコと歩み寄って尋ねた。
「ねぇ、ほかの人もドロドロだったよ? どうするの?」
「ああ、従者さんたちですね。確か村長の家に行ったと聞いてますから、すぐ隣にある共同浴場へ行くんですよ」
リーザのその言葉を聞いた瞬間、カイトの目が輝いた。
「えっ、おふろ……! おふろあるの!? いきたい、ぼくもそこへ行きたい!」
(魔法で『消す』のと、湯に浸かって『休む』のは別物なんだ。頼む、あのドロドロの道を歩いてでも風呂なら行く価値があるんじゃ!)
そこへ父アルベルトが声をかける。
「そうか、カイトはまだ風呂を知らなかったか」
「うん、しらなかった。いきたい!」
そこへ父アルベルトが声をかける。
「そうか、カイトはまだ風呂を知らなかったか。……だが、少し待ちなさい。今は、さっきまで泥まみれで馬車と格闘してくれた者たちが、交代で汚れを落としているところだ。 相当混み合っているだろうからな」
「うん……」
それから数時間。太陽が沈み、村に静寂が訪れた頃。
カイトたちは、村長宅の裏手にある共同浴場へと足を運んだ。
そこにあったのは、お世辞にも立派とは言えない石造りの平屋だった。
長年の湿気と泥で壁は黒ずみ、屋根の隙間からは灰色の煙が這い出している。
入り口の木戸も湿気で歪んでおり、開けるたびに「ギギィ」と重い音を立てる。
およそ貴族が足を踏み入れるような場所ではないが、そこからは微かに、燻したような土の香りと熱気が漏れ出していた。
(……ガーン! 湯船がないっ!?)
中に入った瞬間、カイトは期待していた「肩まで浸かる湯船」が存在しない事実に、心の中で膝をついた。
目の前にあるのは、立ち込める濃厚な蒸気と、男たちが汗を流すベンチのみ。
(そうか、そうだよな……。この村にとって水はつい先日まで、泥にまみれた貴重品。それを大きな桶に溜めて沸かすなんて、燃料も水も無駄が多すぎたわけだ。……ここは、最小限の水で効率よく体を温め、泥を浮かせるための、究極の合理化施設だったんじゃな)
カイトはすぐに「がっかり」を飲み込み、職人の目に切り替えた。視線の先にあるのは、部屋の隅で唸りを上げている巨大な石造りの炉だ。
(さて、魔法という高級品がないこの貧乏村で、一体何を燃やしてこれほどの熱を出しとるんだ? 薪を燃やすにはここは湿気が多すぎるし、そんなに大量の木材を伐り出す余裕もないはずじゃが……)
カイトは、パパの腕の中で「あちち、みるー」と指を指し、炉の焚き口の方へ近づかせた。そこで彼が見たのは、真っ黒な「塊」が赤々と、粘り強く燃え盛る光景だった。
(……ほう! 泥炭か! なるほどな、こいつは一本取られたわい)
独特の燻したような香りと、安定した火力。カイトは即座に理解した。
(前世で、ホームセンターの園芸コーナーで見かけたことがあるが……湿地帯の底に堆積した植物の死骸、それが長い年月をかけて炭化した天然の燃料じゃな。
掘り出して乾かしさえすれば、石炭ほどではないが、薪よりずっと長く、じわじわと熱を出し続ける。村人たちは、自分たちの足元にある「呪いの泥」を、こうして「暖」に変えて生きてきたわけだ。
その泥炭で熱した石に、水汲み場の澄んだ水を少しずつかける……。
水蒸気は比熱が高いからな。確かに、湯を沸かすよりはるかに少ないエネルギーで、大勢の男たちの体を芯まで温められる。理にかなっとるわい!)
(……だがな。)
カイトは腰に手を当て、湯気で白くなる天井を見上げた。
(ワシに言わせればまだまだ甘い。水がある、燃料がある、なら「肩まで浸かれる湯」を沸かすのが道理というもんじゃ)
サウナの熱気が最高潮に達した頃、カイトは隣で汗を流すロランを見上げ、四歳児の拙い口調で「商談」を切り出した。
「ロランおじちゃん。おうちに帰るの、遠いね? ぐるーって、まわるの。たいへん」
ロランは熱さに目を細め、苦笑いして応じる。
「ああ、カイト殿。あの泥沼のせいで、我ら騎士領の民はいつも倍の時間をかけて旅をせねばならんのだ。呪わしい場所だよ。おっと、すまん、お前の領地だったな」
カイトは、汗を拭くふりをしてサウナの床に一本の線を引いた。
「ドロがたいへんなのは知ってるよ……。ここのドロ沼にまっすぐな道、つくるよ。そうしたら、すぐおうちに帰れるよね。おじちゃん、道をつくるから、『木のえだ』を、いっぱいちょうだい。あと……道ができたら、この村に、お湯がわく『お風呂のおうち』、作って?」
ロランは、カイトのあまりに熱心な「プレゼン」を聞いて、思わず吹き出した。
「あははは! 素晴らしい提案だ。だがカイト殿、道を作るというのは、今日のように枝を敷くのとは違うんだ。お風呂を建てるお金があれば、どれだけ立派な木材を運ばねばならんかなぁ……」
ロランの目は、明らかに「可愛い子供の夢物語」を聞く大人の目だった。
そこへ、アルベルトが厳格な声で釘を刺す。
「カイト、いい加減にしなさい。ロラン殿を困らせてはいけないぞ。お前が湿地に作ったものは、あくまで人が渡れる『浮き桟橋』だ。浮いているだけのものは、いつか沈む。馬車が通れば通るほど、泥に飲まれて消えていくんだ。……それが大人の知る現実というものだ。分かったら、もう無理を言うんじゃない」
(……ほう。ワシより八十年も若いくせに、大人じゃと? ならば勝負といこうじゃないか)
カイトの瞳の奥で、職人の火が燃え上がる。
「……パパ。じゃあ、しょうぶだよ」
カイトは、サウナの小さな窓から、月に照らされた湿地帯の先に見える『枯れ大樹』を指差した。
「あそこの、おっきな木まで。馬車がしずまない道を作るよ。……もし作れたら、パパとロランおじちゃん、お風呂作ってね?」
ロランはまだ苦笑いを浮かべたまま、冗談を返すように答えた。
「いいでしょう、カイト殿。もしあの木まで馬車が沈まずに通れる道を作れたら、私は喜んで風呂の一軒や二軒、寄進しましょう」
サウナを出た一行が、夜の月明かりに照らされた湿地の前を通ると、そこには以前カイトが作った浮き桟橋があった。
「見てごらんなさい、カイト」
アルベルトが指差した「浮き桟橋」は、人が渡る板の部分にまで泥が被っていた。
「……浮き桟橋は、人が渡るのがやっとなんだ。もし、この上に馬車など重いものが乗ったら、あっという間に沈んでしまうんだよ。ましてやロラン殿が運んでいるものは木材なんだ。普通の馬車よりも重いんだぞ」
ロランも、その沈みゆく枝を見て「やはりな……」と、約束が冗談でしかなかったことを確信したように頷いた。
だが、カイトだけは違った。
泥を被った浮き桟橋の枝束を、冷徹なエンジニアの目で見つめていた。
(……ふふふ。これを、沈めるところまでが『基礎工事』じゃ。ワシが現役を退いた後も採用されていた護岸環境工法の真髄を見せてやろうじゃないか)
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