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賀茂光栄 時空を駆ける  作者: 屯田 水鏡
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四、光栄の修行1

四、光栄の修行1


「若、御膳をお持ち致しましたぞ。もう何日も食しておられぬでは御座らぬか。いくら屈強な若者で御座りましょうとも、食わねば、御身が持ちませぬぞ。それに、こう申しましては何ですが、若はそれほど屈強では御座りませぬぞ。母御前様も御心痛のご様子で御座りますれば、そう、強情張らず、なにとぞ、この蜘蛛丸めがお持ちいたしました御膳を食して下さりませ」

下人、蜘蛛丸の声が聞こえる。

「分かった、今、行く」

瞑想に耽っていた光栄は蜘蛛丸の耳触りの悪い声で無理やり現実に引き戻された。

そういえば、しばらく、家族をはじめ一族のものとは顔を合わせることも、口を利くこともなかった。

何日も食事は咽喉を通っておらぬし、また、体を動かすことも、忘れていた。

ゆっくりと目を開けるが、焦点を合わせるまでかなりの時間を要して立ち上がることもすぐには叶わなかった。

壁を伝ってゆっくりと立ち上がったが、下半身の筋肉は殊のほか衰えている。

人間の足腰は、使わないと急激に退化するのであろう、縺れる足は歩くのもおぼつかない。

ようやく縁側に出て、庭へ続くきざはしをゆっくりと下りると、階のすぐ側で高坏を二つ並べて蜘蛛丸がひざまずいている。

「若、大丈夫でござるか?」

いつもの気持ちの悪い愛想笑いを浮かべて、光栄の顔を見上げた。

高坏には、飯、野菜、魚肉などがそれぞれ、漆塗りの器に山盛りになっている。

「うむ」

光栄は庭に下りて、蜘蛛丸の前で胡坐を組んで地面に座ると、高坏に手を伸ばして、魚の肉を少しばかり口に入れたが、味覚はすっかり失われて、砂をかむように味気なかった。

この数か月間、光栄は、声の主の元に辿り着くことに全身全霊を傾け、文字通り寝食を忘れていたため、食することも、水分を補給することも怠っていた。

この耳に届く悲しげな声は時空を超えて流れてきているに違いない、ならば、その声を伝って行けば、恐らく、声の主のもとに辿り着けるはずだ。

そう考えた彼は、五官、つまり、目・耳・鼻・舌・皮膚の全ての感覚器官を、時空を越える術の獲得のためだけに費やした。

そのためか、味覚を感じる機能を失い、さらに、身体は食物を受け付けなくなっていた。

それ以上に、彼の体は生命を維持することさえ危うい状態となっていたのであるが、光栄はそのことに気付いていなかった。

陰陽道の修業を二十年以上行ってきた光栄だからこそ、辛うじて生命を保つことが出来たのだが、通常の人間ならばとっくにあの世に旅立っていたであろう。

「後はそなたが食せ、遠慮はいらぬ。酒も飲んで良いぞ」

「本当で御座るか、それでは、有難く頂きまする」

蜘蛛丸は、額を地面に付けるようにしていたが、急に相好を崩して満面に笑みを浮かべ、高坏を抱えて暗闇の中に走り去っていった。

下人を始めとする庶民にとって、貴族の食事は高根の花であった。

一生のうち口にできるかどうか分からない。

光栄の身体を気遣うことを忘れ去ったようにその足は軽やかだった。

食事と酒の魔力は蜘蛛丸を有頂天にさせたのであった。

「あいつめ、俺のことなど、何も気にかけてはおらぬな」

光栄はつい笑ってしまった。

部屋に戻った光栄は、さて、と言って腕組みをし、また、瞑想の門を潜った。


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