母の苦悩2
十二、母の苦悩2
「ああ、田中信子さん。如何ですか、お嬢さんのご機嫌は?」
「あの娘は何も不平や不満を言いませんのよ。そんなに物分かりが良くなくてもいいのに。もっと我がまま言って、私にぶつけてくれて良いのにね」
信子はそう言って目頭を拭った。
「田中さん、ご心配なのは分かりますが、どうぞ気持ちをしっかり持ってください。お母さんがしっかりしないと娘さんは、一層不安になりますよ」
「そうですね、すみません」
「明日はお嬢さん、朱美さんの手術ですね」
「ええ、今度が三度目の手術なのですよ、可愛そうに、未だ前回の手術の跡がおなかにあって、治り切っていないというのに・・」
信子は悔しそうにいうと、また目頭を押さえた。
「お母さんしっかりしてください。執刀医の先生がもうすぐこちらにいらっしゃいます。どうぞ、説明を聞いて下さい」
「そうですね、分かりました」
信子は力なく俯いた。
「あっ、先生がいらっしゃったわ」
ドアがバタンと開いて、白衣を着た五十がらみの男が入ってきた。
白衣を着ている。
前頭部から後頭部にかけて禿げ上がって、蛍光灯の明かりが頭皮に反射している。
側頭部に辛うじて毛髪が残っていて、両耳の付近の癖のある白髪が目立っている。
「やあ、田中さんですね。娘さんのことをちょっと説明しておきましょうかね」
そう言って、信子にパソコンの前に座るように促し、画面を指さした。
「ほらここ。腹部のしこりが大きくなっていますね。今回はこいつを取り除きますよ」
無表情に言う。
「先生、今回が三回目です。あと何回手術すれば良いのでしょうか」
「さあ、分かりませんなあ。何れ、手術が出来なくなるでしょうなあ」
「え?」
信子の顔が曇った。
その時、ドアがバタンと開いて、四十少し前の白衣の男が入ってきた。
「すみません、遅くなりまして」
「ああ、来たか。君、遅いじゃないか」
「来週の手術のミーティングが長引きまして、申し訳ありません、先生」
「田中さん、明日はこの徳永君が執刀をしますので、質問があったらこの男に聞いて下さい。では」
「先生、手術が出来なくなるってどういうことですか」
立ち去ろうとする男に、信子はすがる様な目で問い掛けた。
「ですから、後はこの徳永君に聞いて下さい」
近くでこのやり取りを見ていた光栄は怒りを覚えていた。
〈何という薄情な奴だ。娘を思う母親の気持ちをこいつは全く思いやろうとはしない。何れ、手術が出来なくなるなどという不吉な言葉を吐いておきながら、その理由を言わず、また、心痛によって倒れそうになっている母親に、慰めの言葉も、励ましの言葉もかけずに突き放してしまうとは。許せぬ〉
男は、立ち上がって出口へ向かって歩き、ドアノブに手をかけようとした。
それよりも早く、素早くドアをさっと開けたのは、光栄であった。
「痛い!」
男は悲鳴を上げた。
額をドアの角に激しく打ち付けたのである。
衝撃で部屋が少しばかり揺れた。
「だれだ、ドアを開けっぱなしにしたのは」
男は座り込んで呻きながら、まわりを睨みつけて見廻した。
額が赤くなって、腫れておる。
誰かがドアを開けっぱなしにしたのではない。
光栄が仕組んだいたずらである。
光栄は、男の耳元でそっと囁いた。
「心して聞くが良い。お前の、思いやりのない言葉が招いた当然の報いなのだぞ。これ、もそっと悲しむ者に寄り添った言い様が出来ぬのか、恥を知るが良い」
「え、誰だ」
男は、驚いて周りを見廻したが、自分の側に誰もいないことを確認すると、真っ青な顔をして立ち上がると、そそくさと部屋を出て行った。
職員たちが顔を見合わせてくすくすと声を出さずに笑った。
光栄はそっと男の跡を付いて行ったが、廊下の途中に大きな窓を見つけると立ち止まって、ガラス戸を開けた。
気持ちの良い風が光栄の頬を撫でた。
眼下では車がひっきりなしに行きかい、排気ガスの匂いと誰かが大声でしゃべる声がした。
窓から大きく身を乗り出すとそのまま外へ飛び出した。
風に乗って光栄の体は軽やかに空中を漂っている。
「どれ、この世を見て回ろうか」
両手をトンビの翼の様に広げた光栄の体は風をはらんで軽やかに飛び去った。勿論、彼の姿はだれにも見えない。




