十、母と娘
十、母と娘
「では参るぞ」
二人は風に乗って降下すると、十数階建ての病院の中ほどの階の窓から、カーテンを揺らして部屋の中に入った。
ベッドに横たわった娘とその傍で椅子に掛けた母親らしき女が話をしている。
その声は、光栄が気になって眠れなかったあの声、聞き覚えのある風鈴の音に似た声であった。
「おや、いま、カーテンが揺れたわ、風が吹いてきたのね。朱美、寒くない?窓を閉めようか」
「いいえ、お母さん、なんだか気持ちの良い風だわ。開けたままにしておいて」
光栄と蜘蛛丸はそのすぐ側に立って、二人の顔を交互に見ている。
勿論、母娘にその姿は見えない。
「明日は手術だから、風をひかないように注意しなくっちゃね。朱美、少し寝なさい。私は今から帰ってあなたの着替えを用意しようね、パジャマが二着くらい必要ね、黄色とピンクで良いでしょう、明日は、朝早く来るからね」
「ええ、分ったわ、私のことは大丈夫、心配しないで。母さんは早く帰ってゆっくり休んでちょうだい」
母親はゆっくりと立ち上がって、ベッドの掛布団を少し引き上げてから娘の頬をそっと撫でて、病室を出て行った。
「蜘蛛丸、ここで待っておれ」
「若はどこに行かれるのでござるか」
「肩を落として去って行ったあの母親の様子が、どうにも、気に掛かる、ちょっと見て来ることにしよう」
そう言い残して、光栄は病室を出て行こうとした。
「若、待ってくだされ、某は、何をすれば良いので御座るか」
「何もしなくて良い、いや、してはならぬ。ただ見ておれば良い」
振り返ってそう言い残すと、急いで出て行った。
「やれやれ」
蜘蛛丸は不満げにため息を吐いた。
一人取り残されると、急に不安に襲われたのである。
「もしも、若とはぐれでもすれば、この身は、異次元の世界、いや、遥か遠い未来の、なんとも気持ちの悪い場所で迷子となってしまうではないか、まさか、この蜘蛛丸を置き去りにする若ではないとは思うが」
そのように、自分に言い聞かせるものの、蜘蛛丸の全身は激しい身震いに襲われた。
「誰かいるの?」
突然の朱美と言う娘の声に驚いた蜘蛛丸は思わず自分の口を塞いだ。
「おや、某の姿はこの娘には見えぬ筈、それにもかかわらず、こちらを見ている、さては気配を感じ取られたのか」
蜘蛛丸の胸は早鐘のように鳴った。
心音を聞き取られはしまいかと恐れた。
「風の音だったのかしら」
朱美はベッドに横になったまま、じっと天井を見ていた。
「若、早くこちらへ戻ってくだされ、蜘蛛丸めは、気配を悟られそうで、動けぬでは御座りませぬか」
蜘蛛丸は息を殺して念じた.




