第0話 ウィズニア
『彼と彼女が出会うほんの少し前。
ウィズニアの王都、ネメア』
◇
「陛下……ここも長くは持ちません」
近衛兵の一人が駆け寄ってくる。
内陸にある小さなこの国は、滅亡の時を迎えようとしていた。
「ふむ、腹を括らねばなるまいな……。フューレンはおるか?」
玉座に座るその人は、神妙な面持ちで尋ねる。
小さな国とはいえ、本来であれば王宮には大勢の従者が仕えている。
しかしこの場には、ほんの数名しか残っていない。
壁の燭台は半分が消え、遠くの城壁から届く音だけが、天井の高い部屋に時おり響く。
しばらくして、男が連れてこられる。
金髪を後ろで小さく結んでいる。
王家の軍装は華美なものではなく、袖口に土と血が乾いていた。
静まり返った謁見の間に、彼の足音だけが響く。
「父上、お待たせ致しました」
彼は跪き、頭を下げる。
「おお、フューレン。戻っておったか。今から私が何を話すのか、お前なら分かっていると思うが……」
フューレンと呼ばれた男も、脇に控える兵も、顔色を変えずに国王の話を聞いている。
「私はこの国と共に逝こうと思う」
戦いの場は城下町にまで及んでいた。
住民も従者も、王が逃がした後だった。
「後のことはお前に任せる。辛い役回りを押し付けてすまないが、お前にしか出来ないのだ。わかってくれるな?」
「……はい。陛下からのご命令、しかと承りました」
「それから、これをお前に渡しておく」
国王はゆっくりと近づき、身につけていた首飾りを息子の首にかける。
鮮やかな翡翠色の石がついた首飾りだった。
「それは真実を映す目だ。お前の助けになるだろう」
フューレンはそのまま立ち上がり、王と目を合わせた後、深々と頭を下げた。
父と子は、それきり何も言わなかった。
脇の兵は目を伏せた。
父との別れを済ませたフューレンは首飾りを服の下に入れ、振り返らずに謁見の間を出た。
廊下に出て少し進んだところで、近づいてくる妹の姿に気がついた。
「シャーリー、まだ残っていたのか!」
「お兄様!」
駆け寄ってきた妹の腕を掴みながら、フューレンは続ける。
「ここにもすぐに敵が来る。お前も早く逃げなさい」
「いいえ! お兄様やお父様を置いてなど行けません!」
掴まれた腕を、妹は引かなかった。
「私には、すべきことができた。お前と一緒には行けない」
「そんな! どこに行かれるのですか!」
「それは言えない」
「また……厄災の魔女ですか?」
返事の代わりに、妹の腕を握る手に少しだけ力が入った。
「私もお兄様の力に……」
「ダメだ。……心細いと思うが、許してくれ」
フューレンは、掴んだままの腕を離した。
「……わかりました。くれぐれも、お気をつけて」
「ああ。お前の無事を心から祈っている」
そう言って、妹の頭を自分の胸に引き寄せた。
「お父様は?」
「父上は……」
兄は妹の髪を一度撫でて、背を向けた。
兄を見送った後、シャーリーは迷わず謁見の間へと駆け出した。
「お父様! このまま残られるというのは本当ですか?」
「シャーリー!」
謁見の間に響いた娘の声に驚いて立ち上がった後、国王はゆっくりと座り直す。
「ああ。私は最後までここに残るつもりだ」
「ここに残って、何をされるおつもりなのですか!」
もう何もできることなど残されていない。
父は、国と共に滅ぶつもりだ。
彼女もそれを分かった上で、投げかけた言葉だった。
「そうだな。もう何もできんのかもしれん」
王は玉座の腕を、手のひらで一度撫でた。
「ただ……今もなお、命を賭けて戦ってくれている兵を置いて逃げることなどできんのだ。最後の瞬間まで、私はここを離れてはならない」
何も言えなかった。
ありがとうも、愛していますも、行かないでも。
声を出せば嗚咽を漏らしてしまいそうで、堪えようとすればするほど涙が溢れた。
父は娘の涙を優しく拭う。
「シャーリー。お前の成長を見届けられないのが、一番の心残りだ」
父の声が、いつもより少し優しい気がした。
その声が空気を揺らすたびに、この声を聴くことが叶わない未来を、嫌でも想像してしまう。
「強く生きなさい」
少女は父の手を握りしめ、静かにその場を後にした。
扉が閉まる寸前まで、振り返らずに歩いた。
キィィィン。
どれくらいの時間が経っただろうか。
静かだった王宮内が、徐々に騒がしくなってきた。
「陛下、帝国兵がすぐそこまで……。姫様は裏の馬場から、東へお発ちになりました」
「そうか。そなたらも早く逃げられよ。最後まで良く仕えてくれた」
近衛兵は兜を脱ぎ、深々と一礼をする。
燭台の残りが一つずつ消えていき、窓から差す城下の火の赤だけが、床に長く伸びる。
人生は選択の連続である。
国や歴史もそうであるならば、どこで道は分たれるのだろうか。
やり直すことが叶ったとして、また同じ道を歩むだろうか。
残った王は、一人ただ最後の時を待った。
しばらくして、フードを被った人物が静かに入ってきた。
足音も立てずに、燭台の消えた暗がりをまっすぐ玉座へ向かってくる。
近づいてくるその人物の顔を見て、国王は短く息を漏らして、笑った。
「私を殺すのはお主だったか。死神よ……。いささか妙な気分だ」
相手は無言で頷く。
「私の選択に、間違いはなかったのだろうか? 役目を果たすことができたのだろうか?」
相手は、答えない。
アルベール歴、1010年。
ウィズニア王国は、その歴史に幕を下ろす。




