第21話 ルアルの森の魔女
階段が軋む音に気づいて、手元の湯から顔を上げた。
下りてきたシャーリーが、向かいの椅子に腰を下ろす。
目の縁が、赤く腫れていた。
何かあったのか、と喉まで出かかって、湯と一緒に飲み込む。
「おはよう」
「……おはよう。早いのね」
いつもどおりの声だった。
後から下りてきたリュオンが、黙って湯を飲む俺と、シャーリーの顔を見比べている。
昨夜、見回りから戻った時も、この男は戸の脇の椅子に座っていた。
目の下に、うっすらと隈が浮いている。
リュオンは脇に抱えていた包みを、卓の真ん中に置いた。
「シャーリー様! お弁当を用意して参りました!」
「遊びに行くんじゃないのよ?」
「もちろんです! ミリザさんとエルザさんの分もありますよ!」
シャーリーの視線が包みの上で止まった。
「……二人とも、来てくれるかしら」
「来ますとも!」
「リュオンはまめなんだな」
「お前の分はないぞ!」
「わかってるよ!」
どうせそうだろうと思っていた。けど、少しだけ期待した自分が、恥ずかしい。
坂を下りきると、門の脇に、ミリザとエルザが立っていた。
ミリザはこっちに気づくと、肩掛けの端を握り直した。
「遅いですよ?」
「……悪い」
「シャーリーさんを、放っておけませんから」
シャーリーの返事は、ありがとう、の一言だけだった。
エルザは姉の陰から、シャーリーの顔をじっと見上げている。
「私も、ご一緒します」
「ほら! 来るって言ったでしょう!」
リュオンが弁当の包みを掲げてみせた。
厩の主はカイェンから「連れが取りに来る」と聞かされていたらしい。俺たちを見ると、奥から荷馬車を引き出してきた。
帝国の鞍は預けた時にカイェン自身が外していったという。
水と食べ物を積み込み、リュオンが御者台に上がる。俺もその隣に座った。
「森までは、どのくらいかかる?」
「荷馬車なら、二日ほどです。森からミザリアまでも、同じくらいかと」
荷台に乗り込みながら、エルザが答えた。
門を出て、北東の道をしばらく進んだ頃だった。
「ねぇ、エルザ」
荷台から、シャーリーの声がした。
「『ルアルの森の魔女』って、どういうお話なの?」
エルザは口を開きかけて、隣の姉を見た。
ミリザが唇に指を当てる。
「教会の人たちの前では、話さないでくださいね」
エルザは小さく頷いて、話し始めた。
「昔、人々に恐れられた魔女がいました。ある日、魔女は神様を殺したという罪を着せられて、お城に閉じ込められてしまいます」
車輪が石を噛んで、荷馬車が揺れた。
「けれど、魔女が無実だと知った光の勇者様が、彼女を救い出します。その舞台になったお城が、リンドルアルの古城です」
振り返ると、シャーリーは荷台の縁を握ったまま、身じろぎもしていなかった。
「助け出された魔女は、どうなったの?」
「魔女は、神様のいなくなった世界を憂いて、自分がその世界の神様になると誓います。勇者様の力を借りて神様になった彼女の体は、長い眠りにつきました」
荷台の誰も口を挟まなかった。
「そうなると知っていて、魔女は自分の意志で、もう一度囚われることを選んだんです。勇者様は、彼女が目を覚ます日を、ずっと待ち続けたそうです」
「……魔女は、目を覚まさなかったの?」
「物語は、そこで終わっています」
シャーリーはそれきり黙って、道の先を見ていた。
おとぎ話の魔女は、今まで想像してたものとはずいぶん印象が違った。
俺たちが追い続けている魔女と、この話の魔女は同じものなのだろうか。
エルザが慌てたように頭を下げる。
「あ……すみません。長くなりました」
「この子、レイナードの図書館の本を、ほとんど読んじゃってるんです。こういうお話には詳しくて」
エルザが姉の袖を引いた。
「その城、元々は誰の城だったんだ?」
「分かりません。お城も古すぎて、誰が建てたのかまでは……。ルアルの森は、迷いの森と呼ばれています」
坂がきつくなってきた所で、リュオンが手綱を引いた。
「この辺りで少し、馬を休ませましょう」
道の脇の沢へ、桶を提げて下りる。脇腹がまだ少し疼いた。
もう一つの桶を持って、リュオンもついてくる。木の間から、荷馬車の布が見えていた。
水を汲んでいると、リュオンが言った。
「レイナードの坂で初めてお会いした時、私の前に立ちましたね」
「……お前が誰だか、分からなかったからな」
「ええ。だからこそ、お礼を言わせてください」
リュオンは水に手を浸したまま、少し笑った。
「シャーリー様のそばにいてくださって、ありがとうございます」
「俺は、たまたまそこにいただけだ」
「シャーリー様も、たまたま王家の人間に生まれてきただけです」
リュオンの目が木の間の荷馬車へ向いた。
「国家や戦争、国民の命なんてもの……。あの小さな背中が背負うには、大き過ぎます」
荷台の端に、シャーリーの背中が見えた。
今朝の、腫れた目の縁を思い出す。
「今朝も……」
言いかけて、リュオンは首を振った。
「いえ。何でもありません。戻りましょうか」
水を満たした桶を提げて、黙って坂を上がった。
その晩は街道を外れた林の縁で火を焚いた。昨日は昼からずっと、椅子に座ったまま起きていた男に番を回す気にはなれず、夜の大半は俺が起きていた。
夜明け前に火を消して、発った。あと八日。夕方には森の手前に着く。
一刻ほど進んだところで、道の真ん中に、土の色の違う筋が見えた。
「止めてくれ」
御者台から飛び降りて、屈む。
夜露を含んだ道には、今朝ついたであろう轍がまだ一本もない。
なのに、踏み跡だけが黒く残っていた。
数人分。右手の林から出てきて、街道で向きを揃えている。
林の際まで行くと、細い踏み分け道が、来た方角へ木の間を引き返すように続いていた。
夜のうちに後ろから林を抜けて、俺たちの先へ出たのだろう。
番をしていた俺の耳には、何ひとつ届かなかった。
踏み跡は、道の先へまっすぐ延びている。
俺たちが向かう、森のほうへ。




