第22話 霧
膝の土を払って、荷馬車へ戻った。
御者台のリュオンが、手綱を握ったままこっちを見下ろしている。荷台からも三つの顔が覗いていた。
「何かありましたか?」
「先に誰かいる。数人だ」
ミリザとエルザが顔を見合わせる。
シャーリーは黙ったまま、奥へ座り直した。
御者台の上で、リュオンが道の先を見据える。
「……どうします?」
「このまま行く。回り道してる暇はない」
御者台に上がって、リュオンの隣に座る。
荷馬車がゆっくりと動き出す。
そこから先は、林が道に寄ってくるたびに木の間へ目をやった。
両脇から枝が張り出して、日の当たる幅が細くなっていく。
不意に、隣でリュオンが手綱を引いた。
荷馬車が軋んで止まる。
道の先で、太い木が一本、道を横切って倒れていた。
折れた枝の口が、まだ白い。
御者台から飛び降りるのと同時に、倒木の向こうの茂みが揺れた。
男が三人、四人と出てくる。刃のこぼれた鉈や棍棒を提げていた。
荷台の脇の藪でも、枝の折れる音がする。
「桃色の頭。間違いねぇな」
倒木に片足をかけた男の目は、俺を飛び越えて荷台へ向いている。
「門を張ってた甲斐があったぜ。用があるのは王女様だけだ」
「渡すと思うか?」
「渡さなくてもいいさ。力ずくで連れてく。十日も要らねぇ。お前らの旅はここで終わりだ」
背後で、息を呑む音がした。
「……どうして、それを?」
倒木の男が片足を乗せたまま肩を揺らした。
「なんだ、姫さんの耳には入ってなかったのか。詰め所の兵隊が、酒場ででかい声で喋ってたぜ。王女様は十日のうちに戻らなきゃならねぇってな」
ほかの三人がどっと笑った。
「……そこ、どけよ」
「どかしてみな」
「加減しないぞ」
剣を抜いた。
倒木の向こうには、あいつらしかいない。
刃に風を呼び込む。周りの空気が吸い寄せられて、足元の土埃が渦を巻いて持ち上がった。
髪が後ろへ流れて、耳の横で空気が唸り始める。
まだ足りない。もっと。もっとだ。
服の裾がばたばたと鳴り、背中で馬が落ち着きなく蹄を鳴らしている。
集められるだけの力を込めて、振り抜く。
土埃を巻き込んで、風が道の上をまっすぐ前へ走る。
削られた土が跳ね上がり、倒木が浮いて脇の茂みへ落ちた。
四人の体はひとかたまりになって道の先へ吹き飛んでいく。
枝の折れる音が遠ざかって、風が止んだ。
その直後、背中で馬が悲鳴のようにいなないた。
振り返ると、暴れた馬が横へ跳ねて、引かれた荷車が大きく傾いている。片側の車輪が宙に浮いていた。
荷台では、シャーリーが縁にしがみついている。
「悪い!」
叫んで駆け戻る。
御者台のリュオンが身を反らせて、馬を引き戻した。浮いていた車輪がどすんと道に落ちる。
それを待っていたように、荷台の脇の藪から男が一人飛び出した。
「そのまま、動かないでください」
リュオンの落ち着いた声だった。
片手で手綱を押さえたまま、もう片方の手を荷台へ向ける。
紺色の薄い幕が広がって、荷台を丸ごと包んだ。幕越しに、三人が見える。
男が幕に手をかけた。
ミリザが男へ手をかざす。指先に雷が燻った。
けれど、ミリザはそれを放たない。ほんの一拍、手はかざしたまま止まっていた。
「おい、この女も術を使うぞ! まとめて連れてけ!」
エルザが姉の横顔を見ている。
荷台の脇に着いて、その男へ剣を向けた。男は手を引っ込めて、幕の前から跳びのく。
道の先では、転がった四人が呻きながら起き上がっていた。
「退け!」
男たちは林の中へ散っていく。荷台の脇から動かずに、藪を分ける音が遠ざかるのを聞いていた。
剣を収めて、三人を覗く。
「怪我は?」
ミリザが首を振った。
「平気です。少し、驚いただけですから」
シャーリーが縁を掴んでいた手をゆっくりほどいた。
「私も、大丈夫」
紺の幕が薄れて、消えた。
王女の先生というのは、伊達じゃなかったらしい。
御者台を降りたリュオンが、男たちの消えた林へ目をやった。
「術の使える者までまとめて連れて行こうとする……帝国の攫い手でしょう」
「……帝国は、こんな所にまで手を伸ばしているのね」
シャーリーの呟きに、リュオンは何も答えなかった。
それから、くるりと俺に向き直る。
「それより、お前! 私がいなければ、シャーリー様ごと荷台がひっくり返るところだったぞ!」
「だから、悪いって言っただろ」
「言えば済むと思うな!」
「じゃあ、どうすれば済むんだよ」
「一生済まない!」
エルザがこらえきれずに小さく吹き出した。
道には、風が削った筋が、ずっと先までまっすぐ続いている。
「行こう。夕方には、森の手前に着きたい」
日が傾く頃から、道に霧が流れてくるようになった。
初めは地面を薄く這うほどだったのが、進むうちに馬の膝まで上がってくる。両脇の木の間は昼よりずっと暗い。
やがて道は木の根に割られて細くなり、霧の中へ消えた。
リュオンが荷馬車を止めた。
「ここから先は、荷馬車では無理ですね」
荷台から降りたエルザが、木々の向こうへ目を凝らす。
「もうすぐ暗くなります。朝まで待ちますか?」
「行きましょう。一晩も無駄にはできないわ」
リュオンが馬を外して、荷を括っていた縄を手に取る。
水と食べ物を分けて背負う。
リュオンは馬を引いて木立の奥へ入り、道から見えない太い幹に縄を結わえた。
戻ってくるまでの間、霧の奥からは鳥の声ひとつしなかった。
振り返ると、来た道も霧に白く霞んでいた。人の影は見えない。
先に立って、森へ足を踏み入れると、首筋がひやりとした。
木の根の上に、黒い猫が一匹座っていた。
その体は霧に溶けて、赤い目だけがこっちを見ている。




