第17話 糸
ベルトランが言い終わるのと同時に、隣でカイェンが弓を引き絞る。
狙いは四人の頭の上を越えた先。祠の前の男だ。
かざした手のひらへ、白い光の筋がまだ吸い込まれている。
放つ寸前、その指が動いた。
トーマが一歩退いて、奴の体に重なった。
両腕を下げたまま、トーマはこちらを向いて動かない。
カイェンの弓の先が揺れた。
「カイェン、撃つな!」
思わず叫んだ。
ベルトランが、荒い息の合間に喉の奥で笑った。
「どうしました? 撃てばいいじゃないですか。……撃てよ、ほら!」
カイェンが舌打ちをして、弦を戻す。
「……くそ。届かねぇ」
四人が一斉にこちらへ歩き出す。
トーマも禿げた頭の男も、女も娘も、目は同じ一人を見ていた。
フィズだ。
「またあたしなのー!?」
「天津甕星の盾」
シャーリーが両手をかざすと、ガラスのような壁が展開された。
禿げた頭の男と女がそのまま壁にぶつかる。
ぶつかっても止まらない。肩で、額で、壁を押してくる。
「押しなさい。もっと、押せ!」
男の背中を踏んで、娘が壁の上の縁にしがみついた。
そのまま、体ごとのしかかる。
壁が軋む。
シャーリーの腕が震えていた。
「止まって……お願い、もう止まって……!」
シャーリーの声だった。
「アルドスートゥーラ!」
カイェンが片膝をついて、壁と石畳の隙間から二人の足元へ射込んだ。
三本の矢が刺さったそれぞれの場所から、氷が走って二人の足を石畳ごと縫い止める。
「足止め……ですか……」
ベルトランの声が揺れた。
「なら、要らない……要りませんね、そんなもの……っ」
男が足を持ち上げた。
氷に張りついたまま、足の裏の皮が裂ける。
氷に赤い筋が残った。
裂けた足で、二人はまた壁を押してくる。
カイェンは黙って弓を下ろした。
壁の上から、娘の姿が消えた。
「クシェル、右から回られるぞ!」
カイェンの声に、右へ剣を向ける。
壁の端に降りたと思った時には、娘はもう反対へ跳んでいた。
膝も曲げずに。
振った剣が空を切る。
左の肩を、細い指が掴んだ。
肘が、あり得ない向きに曲がっている。それでも指は肩に食い込んで離れない。
剣に風を集めかけて、やめた。
剣の面で肘を叩くと、指がほどけて、娘は壁の向こうへ跳び戻った。
壁の端から半身を出して、ミリザが手をかざした。
金色の髪が、ふわりと浮き上がる。
その正面へ、トーマが押し出されてきた。
「撃てますか……?」
奥で、ベルトランが笑う。
「くくっ……はは、ははははっ」
トーマの目は、ミリザを映していない。
「姉さん、駄目!」
「卑怯者……」
ミリザの指先で、雷が燻ったまま離れない。
足を裂いた女が壁の下辺に手をかけた。
石畳との隙間から腕が伸びて、フィズの足首を掴む。
「いっ……離して、離してってばー!」
フィズの体が壁の下に引きずり込まれていく。
エルザがその腕に飛びついた。
俺は女の手首を、剣の面で打った。
開かない。
「……エクレール!」
乾いた音と共に、ベルトランの頭上から稲妻が落ちた。
肩を掠められて、格子にかざしていた手が弾かれる。
「……よくも、祈りの最中に」
奴の指が一本、払うように動いた。
女の腕が震えはじめた。
肩から先が崩れるように下がって、指が一本ずつほどけていく。
フィズがエルザごと、壁の内へ転がり込んだ。
フィズは足首を押さえたまま、肩を震わせている。
「そいつはもう、使えませんね」
石畳に崩れた女を、エルザが壁の内へ引きずり込む。
口元に手をかざして、小さく頷いた。
息はある。
「お待たせしましたね」
息の乱れが、どこにも無い声だった。
次の瞬間、奴の姿が消えた。
三人の脇を抜け、壁の端を回って、フィズの目の前にいる。
考えるより先に、体が間に入っていた。
剣の面で受ける。
受けた剣ごと、体が横へ流された。
「あなたじゃないんですよ。その女だ」
また消えた。
フィズの前へ割り込んで、受ける。流される。
このまま受けているだけでは、いつかフィズに届く。
次に姿が見えた所へ、こっちから踏み込む。
薙いだ刃の先に、もう奴はいない。
「どこを見てるんです?」
右。目で追って振り向いた時には、脇腹に蹴りが入っていた。
息が詰まる。それでも剣を返す。
左に見えた影へ斬り込む。空を切った。
がら空きの背中に、また一撃が来る。
「そっちじゃありませんよ」
奴の影を、目が半歩遅れて拾う。
三度目に振り抜いた剣も、何もない所を通り過ぎた。
石畳に膝をついた時、襟首を掴まれた。
体が浮く。
広場を横切って放り投げられ、背中が格子に打ちつけられた。
脛の曲がった守備兵の、すぐ脇だった。
突いた手のひらの下で、格子がかすかに脈を打つ。
「クシェル!」
広場の向こうで、カイェンが叫んだ。
「そこは……そこは私の場所だ! どけ、どけ、どけぇっ!」
立ち上がろうとして、膝が折れた。
「どけって……言ってんだろうが!」
頭の奥で、誰かの低い声がした。
「目で追うな。音を聴け」
格子に背を預けて、立ち上がる。
柄を握る親指が、勝手に位置を直していた。
目を閉じた。
閉じた途端、光の残りが消える。
目の前で、湧き水が水盤に落ちる音がする。氷の軋む音。誰かの荒い息。
その下に、細いものが張る音がある。
一本じゃなかった。
広場のあちこちから伸びた細い音が、ベルトランの元に寄り集まっている。そこから太い一本が、俺の脇を抜けて背中の格子へ張っていた。
「目を……閉じて、どうするんです……」
すぐ前で、笑いを含んだ声がした。
音の寄り集まる所が、声と一緒に動く。
右。
目を開けないまま、剣の面を右へ立てる。
打ち込みが剣に当たる。今度は流されなかった。
次の一撃も、音のほうが先に来た。
身を沈めてかわすと、頭の上を風が抜けていく。
そのまま、格子へ張った一本へ刃を返した。
刃にだけ、細く風を乗せる。
ぷつりと、音が切れた。
寄り集まっていた細い音が、一斉にほどけていく。
広場のあちこちで、人の倒れる音がした。すぐ脇で、守備兵も崩れ落ちる。
背中が温かい。
目を開けると、背中の格子の隙間から光があふれていた。さっき見た時よりもずっと明るい光が、水盤も石畳も倒れた人の背中も照らしている。
ベルトランは数歩先で、格子へ手を伸ばしたまま立っていた。
首のひびの奥で、赤黒い光が暴れている。
格子からあふれた光に引き出されるように、その赤黒い光が外へ噴き出した。首から肩へ、肩から腕へ、割れ目が音もなく広がっていく。
「まだ……まだ、足りない……この街は、私が……」
伸ばした手が、格子に届く前に止まった。
その手が胸の前に下りてくる。指が組まれる。
「グランダークを……照らす……」
ミリザが、息を止めた。
その唇が続きの形に動きかけて、止まる。
ベルトランの声はそこで途切れた。
光が男の輪郭を呑み込んで、ほどけるように消えていく。
後には、石畳の上に灰の跡と、首に巻いていた布だけが残った。
柄を握った手が、まだ開かない。
祠の光の中で、倒れていた人が一人、身じろぎをする。
また一人。禿げた頭の男が、薄く目を開けた。瞬きをする。
エルザが引きずり込んだ女も、目を開けていた。
娘が石畳に座り込んでいる。
格子のそばでは、脛の曲がった守備兵が足を抱えて呻いていた。
少し離れた所で、トーマが顔を上げた。
ぼんやりと辺りを見回して、それから一点で目が止まる。
「……ミリザ?」




