第16話 もの
三人が坂の下へ消える前に、ミリザが陰を飛び出した。
俺も陰を出て、柱の脇まで走る。
柱の脇から見下ろすと、並んだ灯りの先に青い戸が小さく見えた。
三人が戸を叩いている。
「来ないでってばー!」
二階の窓から小さな光の球が飛んで、戸の前の石畳で弾けた。
三人が揃って身を引き、二階の窓を見上げる。
狙いはフィズか。
戸が内から開いて、弓を構えたカイェンたちが飛び出してきた。
「籠もってたら、戸ごと破られるだけだ!」
「エルザ!」
叫んだミリザの背中が、灯りの間を駆け下りていく。
俺も、宿の前へ急いだ。
あと少しという所で、頭の上の石垣から影が降ってきた。
目の前に、男が一人立っている。
首に高く巻いた布の上で、ひびがかすかに赤く光って消えた。
祠の前で、一人だけこっちを向いていた男だ。
「こっちは任せろ!」
下でカイェンが怒鳴った。
男は首を傾げて、俺を見ている。
「ゆうべ、あいつらの邪魔をしたのは、お前か?」
答えずにいると、口元だけで笑った。
「あの女の始末が済まないんですよ。どけ」
「……ベルトランか」
相手の目が見開かれた。それから、肩を揺らして笑い出す。
「まだいたんだ、その名を覚えてる奴が。この街に」
笑いが、ふっと止まった。
「私はね、祈っていただけなんですよ。毎晩、毎晩毎晩毎晩、あの祠で。精霊の力が、私には要るんです。それだけなのに、あいつらは……」
首の布に、指がかかる。
「どいつもこいつも、邪魔ばかりする。祈るたびに、精霊には感謝しましたよ。そのたびに、この街が憎くなった」
「だから、この街の人間を使うのか」
「使う?」
本当に分からない、という顔だった。
「返してもらっているだけですよ。私が祈った分を。……ねぇ、分かるでしょう?」
会話はできる。
なのに、向き合って肌に来るのは、ドルナの広場で刃物を握っていた男と同じものだった。
奴の肩越しに、カイェンが戸口まで押し込まれるのが見えた。
踏み込んで、剣を横に払った。
刃が届く前に、奴の姿が消えた。
いきなり右にいる。
剣の面で受けられたのは、勘だった。腕ごと弾かれて、坂を二歩、押し上げられる。
正面が空いて、その向こうに宿の前が見えた。
「親父! 昼間の親父だろうが、目ぇ覚ませ!」
カイェンが弓の端で、禿げた頭の男を押し返している。一本も射られないまま、戸口に背を付けていた。
「トーマさん、やめて! ねぇ、トーマさん!」
エルザがトーマの腕にしがみつき、ミリザがそのエルザを後ろから抱えている。
シャーリーは、女の伸ばす手からフィズをかばっていた。
「よそ見ですか」
今度は左から来た。
受ける。また弾かれる。
右。左。もう一度、右。
受けるたびに腕が痺れ、踵が石畳を擦って、坂の上へ押し戻されていく。
息が上がる。それでも、膝はつかなかった。
打ちかかってくるたびに、奴の首元でひびが赤黒く光り、上へ上へと這い上がっていく。
ベルトランの息も、荒くなっていた。
打ち込みの合間に、その目が俺の肩の向こうへ逸れる。坂の上。祠のほうだ。
次の一撃が来ない。
相手は俺の脇をすり抜けて、坂を上ろうとした。
行かせるか。
体ごと前へ出て、剣の面でその胸を受け止める。
押し返してくる。足が滑る。それでも退かない。
「どけ、どけよ、どけ、ど……ぁ、が……っ」
言葉が、言葉の形をしなくなっていく。
その肩の向こうで、宿の前の三人が一斉に動きを止めた。立ったまま、揺れている。
ベルトランは自分の口を手で塞ぎ、俺の頭の上を越えて坂の上へ跳んだ。
「……なんだ? おい、クシェル! こっちは止まった、行け!」
その声に押されて、坂を駆け上がる。
広場に駆け込んだ時には、ベルトランはもう荒い息のまま格子に手をかざしていた。
格子の隙間からこぼれた白い光が、細い筋になってその手のひらへ吸い込まれていく。
首のひびから、赤黒い色が引いていく。
こっちに気づくと、奴は指を一本だけ動かした。
坂の下から、また足音が上ってくる。
宿前のやつらを呼び戻す気か。
その前に、あいつを。
踏み出した足の前へ、守備兵の外套の男が出てくる。
剣を寝かせて足を払った。男は抗いもせずに倒れ、倒れたまま首だけを祠のほうへ戻す。
構っていられない。
脇を抜けようとした時、格子の前であの指がもう一度動いた。
倒れていた守備兵が、手もつかずに引き起こされる。骨の折れる音がした。
脛が、途中で曲がっていた。
その足で石畳を踏んで、何事もなかったように祠の前へ戻っていく。
「並べたものを、崩すな。困るんですよ、本当に」
喉の奥が熱くなる。
「人を、何だと思ってる」
柄を握り直して、格子へ踏み込む。
今度は、水盤の前にいた娘が俺の前に押し出されてきた。
幼い顔が、瞬きもせずに俺を見上げている。
振りかけた剣が、その額の手前で止まった。
「どうぞ。この街の子ですよ」
斬れるわけがない。
その間に、戻ってきた三人が俺の脇を抜けた。
トーマ。禿げた頭の男。女。
娘の横に並んで、ベルトランの前を塞ぐ。
伸びてきたトーマの腕に胸を突かれて、広場の口まで押し戻された。
すぐ後ろから、エルザが駆け込んでくる。
「エルザ! 待て、前に出るな! ばらけたら終わりだ!」
追ってきたカイェンが、エルザの肩を掴んで引き戻した。
ミリザとシャーリー、フィズも追いついてくる。
エルザが祠の前の守備兵の脛を見て、口を押さえた。
カイェンが格子の前の男を顎で示す。
「……あいつか」
「ああ。ベルトランだ」
格子に手をかざしたまま、奴が笑った。肩はまだ上下している。
「邪魔を……するな……邪魔、を……」
笑いが引きつって、声が裏返った。
「全員、まとめて潰してやる」




