第15話 祠
矢筒が軽いってのは、どうにも落ち着かねぇ。
クシェルたちが門から戻ったんで、番は昼で交代だ。
坂の下の武具屋で矢を二十本買い足して、ようやく背中に重みが戻った。
禿げ上がった頭の親父は、俺の弓を見るなり、いい弓だと二度も褒めた。
シャーリーに頼まれた魔女の話は、親父も隣の革屋も知らなかった。
喉が渇いた。帰り道に酒場があるのが悪い。
昼下がりの店には、客が二組いるだけだった。
卓を拭いていた前掛けの女が、顔を上げる。
「いらっしゃい。見ない顔ね、旅の人?」
「いい男は、だいたい旅の途中だ」
「自分で言う人、初めて見たわ」
女はけらけら笑って、葡萄酒の杯を置いていった。
一口含んでから、なるべく何でもない声を作る。
「この辺りで、夜中に出歩く奴の話を聞いたことはねぇか」
布巾を動かす女の手が止まった。
「……夜中?」
「連れが、夜の坂で妙なのを見たって言うんでな」
「さあ。酔っぱらいなら、いくらでもいるけど」
さっきまでよく回っていた口が急に重くなって、目もこっちを見ない。
嘘の下手な女だ。
杯をもう一つ頼んで、女の前へ滑らせた。
「あんたの分だ。一人で飲むのは性に合わなくてね」
女は少し迷ってから、向かいの椅子を引いた。
杯に口をつけて、細く息を吐く。
「……昔ね。夜中に、祠へお参りに来る子がいたの」
「ガキが一人でか」
「ベルトランって子。祠が好きでね、家をこっそり抜け出しては手を合わせに来てた」
女は杯の縁を指でなぞった。
「そのうち、あの子と遊んでた子たちがね、夜中に祠の前で突っ立ってるのが見つかったの。目を開けたまま、朝まで」
「そいつらはどうなった」
「次の日には、けろっとしてた。何も覚えてなかったって。それからすぐ、ベルトランの首から肩にかけて、ひびみたいな痣が出たの」
女は自分の首筋に指を一本当てて、すぐに離した。
「悪魔憑きの兆しだって、大人たちが縛り上げて。そのまま街から追い出しちゃった。あたしもまだ小さかったから、それっきりよ」
「悪かったな。嫌なことを聞いた」
「いいのよ。一杯分くらいはね」
女は杯を空けて、卓を拭きに戻っていった。
目を開けたまま、朝まで、か。
昨夜クシェルから聞いた、窓の下の男の話が頭をよぎった。
残った葡萄酒がさっきより苦い。
奥の卓で、男たちの笑い声が上がった。
「いや、ありゃ大したもんだったぞ。棒一本でくるくる回ってよ」
「お前、顔しか見てなかったろうが」
「髪だよ、髪。水みたいに透けた色でさ、それがふわっと揺れるんだよ」
杯を口へ運ぶ手が、途中で止まった。
棒一本で舞う踊り子。水のような色の髪。
考えるより先に、足が奥の卓へ向いていた。
「その踊り子、どこで見た」
「な、なんだよ急に。門の脇の空き地だよ。旅の一座でさ」
「明日の朝には発つってよ。見るなら今夜が最後だな」
……あいつだ。
今夜、門まで下りれば会える。
会って、何を言うつもりだ。
男たちに礼を言って、卓に銅貨を置く。
酒場の戸を押すと、外の光がやけに目に刺さった。
フィエルテの王都、ミザリアの王城では、兵士たちが慌ただしく廊下を行き来していた。
「帝国から使者が来てるって、本当なのか?」
「ウィズニアを落としたその足でかよ」
「まさか、うちにまで戦を吹っかけに来たんじゃないだろうな」
西日の差す謁見の間には、家臣たちが左右に並んでいた。
その間を、背の高い男が進んでくる。
鉄灰色の髪を短く刈り込み、頬に古い刀傷が一本走っていた。
肩に毛皮をあしらった重い鎧の裾には、乾いた泥がこびりついている。
南の関を越え、馬を替えながら駆け通してきた。
男は玉座の前で足を止めた。
「お初にお目にかかります、陛下。ディズァブル帝国第一師団、師団長ヴィンセント・ノーヴァでございます」
玉座には、若い男が頬杖をついて座っていた。
蜂蜜色の髪を後ろへ流して額を見せ、灰青の目だけが鋼のように冷えている。身に着けているのは王の礼装ではなく、軍装だった。
シャルロ・フィエルテ。
先日亡くなった先代に代わって、王の座に就いたばかりの男だった。
「貴公がディズァブルの戦神か。噂には聞いていたが、なかなか肝の据わった男のようだな」
戦神と恐れられる男を、王は鼻先で笑って迎えた。
「用件を聞こう」
「貴国に逃げ込んだウィズニアの王女を、引き渡していただきたい」
「ほう。ウィズニアの王女が、この国に」
王は頬杖をついたまま、眉ひとつ動かさなかった。
「確かな話か?」
「王女はドルナ村まで逃げておりました。その先には、この国しかございません」
ヴィンセントの拳に、ぐっと力がこもる。
「魔力の元凶を、あの汚らわしい一族の血を、根絶やしにしなければなりません」
「拒めば、どうする」
「強硬な手段を取らざるを得ないでしょうな。大罪人を庇う国を、帝国は認めません」
家臣の何人かが思わず身を引いた。
王だけが、じっとヴィンセントを見ていた。
「良かろう。だが、すぐにという訳にはいかぬ。追って使いの者を出す。貴公は一度、国元へ帰られよ」
ヴィンセントは不敵な笑みを浮かべて一礼し、謁見の間を後にした。
扉が閉まると、王は玉座から立ち上がった。
「出立を早める。これより発つ」
「陛下。国境の守りを見に行かれるのは、まだ先のご予定では」
「先にしていられなくなった」
王は家臣たちを見渡した。
「ドルナから逃げたのなら、国境を越えて最初に入る街はレイナードだ。王女を探せ。見つけ次第、私の前へ連れてこい」
剣を膝に立てかけて、窓から坂の灯りを見張っていた。
昨夜、あの男が立っていた灯りの下には、誰もいない。
さっきカイェンから聞いた名が浮かぶ。
ベルトラン。首から肩にかけて、ひびみたいな痣があったという。
階下で、宿の戸の開く音がした。
剣を掴んで階段を下りると、食堂のカイェンが杯を置いて、弓を取ったところだった。
「雷の嬢ちゃんだ。祠に行ってくるって、言うなり飛び出していきやがった」
「俺が行く。シャーリーを頼む」
カイェンの目が一瞬、坂の下の門のほうへ流れた。
「……番の借りだ。今夜は返しとく」
その声を背中に、坂を駆け上がった。
広場の手前で、湧き水が水盤に落ちる音が思ったより大きく聞こえた。
格子から漏れる淡い光の前で、肩掛けを羽織ったミリザが一人、手を合わせていた。
「戻るぞ」
ミリザが目を開けて、振り向いた。
「クシェルさん」
「祠の前は危ないって、フィズが言ってただろ」
「心配して来てくれたんですか?」
ミリザは格子の奥へ目を戻した。
「昨日より、暗い」
格子の隙間から漏れる光は、昨日見た時よりも細かった。
ミリザは水盤の水面に目を落とした。
「トーマは……教会に荷を届けに来るたびに、頼んでもいないのに重い物を運んでくれたんです。長椅子を一人で全部運び出して、腰を痛めて、みんなに笑われて……」
そこで声が切れた。
「竈の火傷って、あんな形になりますか」
トーマの手の甲の、枝分かれして走る赤い筋が浮かんだ。
答える前に、祠を見た。
奥の淡い光は、何も教えてくれない。
「……さあな」
ミリザはそれ以上は聞かなかった。
「帰るぞ」
「はい」
広場の口へ向かいかけた時だった。
広場のすぐ下の脇道から、足音が上ってくる。
一つじゃない。揃った複数の音。
帰り道は、あの足音の方だ。
ミリザの腕を掴んで、石垣に沿った脇の陰へ引き込んだ。
「動くな」
ミリザが息を詰めて頷いた。
柱の灯りの下に、男が一人入ってくる。
路地でフィズを追い詰めていた、灯りの中の一人だ。
守備兵の外套を羽織っている。門番の言っていた夜番は、こいつか。
男は水盤の前まで歩いて、祠のほうを向いて止まった。
また一人。今度は女だった。
禿げた頭の男。
まだ子どものような顔をした娘。
誰も口をきかない。灯りの下を通る時、誰一人として瞬きをしなかった。
五人目の顔が灯りに入った時、隣でミリザの息が止まった。
トーマだ。
ミリザの喉から声が漏れかける。
その口を、手で塞いだ。
手のひらの下で、唇が震えている。
だらりと下げたトーマの手の甲に、赤い筋が引きつれていた。
手を離すと、ミリザはトーマを見たまま囁いた。
「……知ってたんですか」
「……ああ」
ミリザはそれきり、何も言わなかった。
五人は水盤の前に一列に並び、祠を向いて立っている。
いつの間にか、その真ん中に男がもう一人いた。
灯りの下を通ったのを、見た覚えがない。
ほかは皆祠を向いているのに、その男だけがこっちを向いている。
俺たちの潜んでいる陰を、じっと見ている。
耳の奥で細いものがぴんと張る音がして、列のうち三人が一斉に向きを変える。
トーマもその中にいた。
三人は広場を出て坂を下りていく。
その先には、青い戸の宿がある。
ミリザが、こっちを見ないまま呟いた。
「……宿には、エルザたちが」




