第13話 またな
振り返ったミリザの横をすり抜けて、悲鳴のした方へ走った。
「クシェルさん!」
後ろからミリザもついてくる。
悲鳴の後に、石畳を駆ける靴音が続いていた。
逃げる音が一つ。それを追う音がいくつか。
追う足音は、どれも拍が揃いすぎていた。
角を曲がると、坂から外れた細い路地に入った。
灯りは中ほどに立つ柱の一本だけだ。
その下で、白い髪の小柄な女が、三人の男に壁際へ追い詰められていた。
女は両手を前に突き出して、首を横に振っている。
「ちょ、ちょっと待って。話せば分かるって、ねえー!」
男たちは何も言わない。
右と左の二人は灯りの中にいて、三人目だけが少し奥の暗がりに立っている。
右の男が一歩詰めた。
「下がってろ」
ミリザにそれだけ言って、俺は男たちと女の間に割って入った。
「はい。……こちらへ!」
背後で、ミリザが女を連れて角のほうへ下がっていく。
灯りの中の二人の目が、女から俺へ移った。
顔だけ見れば、どこにでもいそうな男たちだ。
ただ、どちらも瞬きをしない。
「どういう状況だ」
「知らないわよ! いきなり追いかけてきたんだもん」
剣を抜いても、三人は身構えなかった。腕を下げたまま、ただ立っている。
右の男が消えた。
そう見えた。
拳はもう、顔の前にあった。
とっさに剣の腹で受ける。
重い。骨の芯まで響いて、靴底が石畳の上をすべった。
押し返す間もなく、左の男の腕が鞭のようにしなって横から来る。
肘が、曲がるはずのない向きに折れている。
身を沈めてかわし、その腕へ刃を返した。
刃は空を切った。腕がありえない所でもう一度折れていた。
「なんだ、こいつら……!」
「腕は駄目! どこでも曲がるの!」
刃で捉えられないなら、叩くまでだ。
剣を寝かせて、平らな面に風を乗せた。
また来た右の男の拳を、面ごと押し返す。
男は二歩下がって、何事もなかったように止まった。
顔色ひとつ変えていない。
「伏せててねー!」
女の声と一緒に、肩のすぐ横を小さな光の球が抜けていった。
右の男は足も動かさず、上体だけを横へ折ってそれをかわす。
「うそっ、避けた!?」
奥の暗がりで、人影が沈んだ。
頭の上で、壁を蹴る音がした。
振り向こうとして、今朝殴られた腹が引きつった。
うなじの毛が逆立つ。
暗がりにいたはずの気配が、真後ろにある。
「エクレール!」
ミリザの叫ぶ声に続いて、背後で空気が鳴った。
白い光が路地を一瞬塗りつぶす。
壁を蹴る音がもう一度頭の上を越えて、暗がりへ戻っていく。
「背中、がら空きですよ」
「……悪い。後ろは頼む」
「はい!」
今度は待たない。
風を背に受けて踏み込み、剣の面で二人をまとめて薙ぎ払った。
二つの体が壁に叩きつけられて、石畳に落ちる。
いける。
とどめに踏み込もうとした時、起き上がりかけていた二人が、その姿勢のまま止まった。
灯りの中の二つの顔と、奥の影が同じ角度でこちらを向いていた。
呼ばれたように、三人は一斉に背を向けた。
「……止まった?」
耳を澄ませても、何も聞こえない。
三人は足音を揃えて路地の奥へ去っていく。
誰も、一度も振り返らなかった。
追いかけようとして、やめた。後ろの二人を置いてはいけない。
「無事か」
「はい。この方も」
後ろで女がずるずると座り込む音がした。
「……はー、助かったわー。死ぬかと思った」
坂へ出ると、さっきと同じ灯りが並んでいた。
女はミリザの隣を、肘をさすりながら歩いている。
「怪我、見せてください」
「へーきへーき。ちょっと擦りむいただけー」
「あの……お名前を聞いても?」
「フィズよ」
「何で追われてたんだ」
「祠のそばで、ちょっと見ちゃったのよ」
「何を」
「人よ。夜中なのに、祠の前に何人も突っ立ってて。みんな同じほうを向いたまま、ぴくりともしないの」
ミリザの足が止まった。
「祠って……坂の途中の、ですか」
「そう。湧き水のとこ」
ミリザが坂の上へ目をやった。
夕方、格子の奥を覗き込んでいた横顔が浮かんだ。
「それで、追われたのか」
「そういうことー。なんか見てたのが、ばれちゃったみたい」
「そんな所で何をしてたんだ?」
「ちょっとした調べ物よ」
フィズは笑って、それ以上は言わなかった。
ミリザは坂の下の門のほうを振り返って、それから俺の腹のあたりに目を落とした。
「……ドルナから来た人のことは、明日聞きに行きます。今夜は宿に戻りましょう」
「俺のことなら気にするな」
「さっき、振り向くのが遅れてました」
言い返す言葉が見つからなかった。
ミリザは前を向いたまま、少しだけ笑った。
青い戸を開けると、食堂には卓の上の燭台が一つだけ灯っていた。
寝癖の付いた頭で、カイェンが卓の杯を手にしていた。
「……夜中に戸が鳴ったと思ったら。何だ、その女」
「夜分にお邪魔して悪いわねー」
階段から、エルザが駆け下りてきた。肩に毛布を掛けたままだ。
「姉さん!」
「ごめんね、エルザ。起こしちゃった?」
エルザは首を横に振って、姉の手を両手で握った。
階段の上には、シャーリーも立っていた。
路地でのことを話すと、カイェンが眉を寄せた。
「揃って退いた、ねぇ。……悪魔憑きか?」
「分からない。ドルナの広場で見た奴とは様子が違った」
「そうか……で、ここに置いとけってのか」
カイェンはフィズを頭からつま先まで眺めて、それからミリザを見た。
「今夜だけでも、お願いします」
「追われてんのは、俺らも同じだろうが」
カイェンの目が一瞬だけシャーリーへ向いた。
「なになに、あんたたちも追われてるの?」
「旅の者よ。それ以上は聞かないで」
階段の上から答えたのは、シャーリーだった。
そのまま下りてくると、フィズの前で足を止める。
「あなたも、話したくないことがあるんでしょう?」
「……まあねー」
シャーリーがフィズの肘に目を留めた。
擦りむいた所に、乾きかけた血が付いている。
シャーリーは黙って懐から手巾を出すと、それをフィズの肘に巻いた。
「今夜は、私の部屋で休んで」
「おい、それは……」
言いかけた所で、シャーリーと目が合った。
黙って首を横に振られる。
カイェンが大きく息を吐いた。
「……しょうがねぇか。嬢ちゃんがそう言うならな」
「あ、なにそれ葡萄酒? 一杯もらってもいい?」
「やらねぇよ」
カイェンは卓の杯を掴むと、そのまま二階へ上がっていった。
部屋に戻っても、剣は手放せなかった。
窓を細く開けて、坂を見下ろす。
柱の灯りはまだ点いたままだ。
その一本の真下に、男が立っていた。
こちらを見上げている。
灯りが、その顔をまともに照らしていた。
瞬きをしない。
夕方、坂で木箱を担いで「またな」と言っていた、あの若い男の顔だった。




