第11話 国境
日が高くなるにつれて、荷台の板が温まってきた。
熱はまだ少し残っているが、朝のように頭の芯が揺れることはない。車輪が石を踏むたびに、背中が小さく跳ねた。
ミリザは膝の上で革袋の口を締め直してから、街道の先へ目をやった。
「このまま行けば、国境が見えてくるのは昼過ぎですね」
「国境ねぇ。そんな簡単に通してもらえるもんなのか?」
御者台のカイェンが、手綱を握ったまま振り返った。
言われてみればそうだ。戦をしている国から逃げてきた荷車を、向こうがすんなり通してくれるとは思えない。
「私とエルザは、たぶん大丈夫です。フィエルテへの通行証を持っていますから」
「通行証?」
「レイナードはフィエルテの街なんです。私たちはそこで生まれたんですよ」
ミリザは少しだけ笑った。
「ってことは、通れるのは二人だけか」
「じゃあ、俺たちは荷物になるしかねぇな」
カイェンは冗談のつもりで言ったんだろう。
だが、手段を選んでいられる立場でもない。
「よし、そうしよう」
「え、マジかよ」
「布なら二枚ある。荷の陰に潜れば、三人くらいは隠れられるだろう」
「危なくねぇか?」
「国境で手間取っている間に追いつかれるほうが、よっぽど危ない」
それに、ウィズニアの王女がいると知られたら、それはそれで面倒なことになりそうだ。
荷台の隅で膝を抱えていたシャーリーが、顔を上げた。
「フィエルテに入ってしまえば、帝国も表立っては追ってこられないはずよ。よその国に兵を入れたら、それだけで戦の理由になるもの」
「なら、国境さえ越えればいいってことだな」
「……へへ。面白くなってきたじゃねぇか」
カイェンは前に向き直ると、手綱を軽く鳴らした。
しばらく走ると、ミリザが言っていた通り、街道の先に木の柵と見張りの小屋が見えてきた。
御者台をミリザとエルザに代わってもらい、俺たちは荷台の布の下に潜り込む。
厚い布の下は思っていたよりずっと暑く、残った荷の角が脇腹に当たっていた。
すぐ横にシャーリーの肩がある。息をするたびに布の端がかすかに動いた。
剣の柄に手を置いて、耳を澄ませる。
後ろのほうからも、別の荷車の軋む音がついてきていた。逃げてくるのは俺たちだけじゃないらしい。
車輪が止まった。
「止まれ。通行証を見せろ。無い者は身分を検める」
「通行証でしたら、こちらに」
エルザの声だった。
足のほうで、カイェンが布の端をつまんで持ち上げようとする気配がした。
「本当に大丈夫なのかよ」
ほとんど息だけの声だった。俺も同じくらいの声で返す。
「やめろって。見つかったらどうするんだ」
「それが心配だから見てるんだろうが」
「二人とも静かにしなさいよ……」
シャーリーに叱られて、俺たちは揃って黙った。
「レイナードへの帰りか?」
「はい。ウィズニアの教会に施しの品を届けるつもりだったのですが、戦が激しくなったと聞いて、慌てて引き返してきました」
「そうか。それは災難だったな」
紙を返す音がした。
これで通れる。
そう思ったのに、砂を踏む足音が一つ、荷車の前のほうへ回っていく。
馬が鼻を鳴らした。革を手のひらで叩く、乾いた音がする。
「おい、この鞍は」
「はい。帝国の馬です」
兵が言い終わるより先に、エルザが答えていた。
帝国の?
荷車を引いているのがそんな馬だなんて、思いもしなかった。
すぐ横で、布の端の揺れがぴたりと止まった。
「私たちの馬は、途中で戦の騒ぎに驚いて逃げてしまったんです。困っていたところに、乗り手のいないこの子が道の脇に立っていて」
「それで、そのまま連れてきたと?」
「鞍は外していません。乗っていた方がどうなったのかと思うと、外す気になれなくて」
声は小さく、少し震えている。
それなのに、言葉は一つも途切れなかった。
「帝国の兵だぞ」
「アリスティア様の前では、同じ人の子ですから」
兵は何も言わない。
馬の首を撫でているのか、手綱の金具が小さく鳴っていた。
やがて足音が、ゆっくりと荷台のほうへ近づいてくる。
「……念のため、荷も見せてもらおうか」
すぐ上の布が引かれて、少しだけ動いた。
柄を握る手に力が入る。
隣でシャーリーの肩が強張った。起き上がろうとしている。
布の下で彼女の手を探り当てて、上から押さえた。
ここはエルザに任せるしかない。
「どうぞ。施しの品ばかりですけれど」
エルザの声はさっきまでと少しも変わらなかった。
布を引く力が、そこで止まる。
「……いや、いい。通るがいい」
「ありがとうございます。アリスティア様のご加護がありますように」
車輪がまた動き出した。
柵の前のざわめきが後ろへ遠ざかっていく。
エルザ、名演技だ。
「もう出てきていいですよ」
ミリザに声をかけられて、布の下から這い出した。
風が汗ばんだ首筋に当たって、ようやく息ができた気がする。
「ふう。ヒヤヒヤしたぜ」
「こっちの台詞よ」
シャーリーはカイェンを睨んでから、乱れた髪を手ぐしで直した。
御者台では、エルザが手綱を握ったまま大きく息を吐いている。
「助かった。ありがとう、エルザ」
「……心臓が、止まるかと思いました」
「馬のこと、知ってたのか」
聞くと、カイェンが首の後ろを掻いた。
「……連れてきたのは俺だ。悪い、頭から抜けてた」
「私も、すっかり忘れてました」
ミリザが気まずそうに目を逸らす。
エルザが胸に手を当てたまま、小さく息をついた。
「柵が見えた時に思い出したんです」
あの嘘を、その場で考えたのか。
「エルザ、いつの間にあんなに上手に話せるようになったの?」
ミリザが感心したように妹の顔を覗き込む。
「姉さんに任せたら、顔に出るもの」
「出ませんよ」
そう言い返したミリザの頬が、むっとふくらんでいる。
「ほら、出てる」
荷台の隅で、シャーリーが小さく吹き出した。
ここからはフィエルテの土地だ。
街道はゆるやかに上り、丘の肩を回り込んだ所で、急に視界が開けた。
小高い丘の斜面から頂まで、石造りの街並みが隙間なく続いている。傾き始めた日に照らされて、壁という壁が橙色に染まり、そのあいだに落ちた影がいっそう濃く見えた。
思わず息を呑んだ。
「きれいね……」
シャーリーも、目を細めて丘を見上げている。
ミリザは何も言わずに、しばらく街を見つめていた。
その隣で、エルザが手綱を握り直す。
「司祭様は、ご無事でしょうか」




