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ウィズニア ~記憶をなくした剣士は、厄災の魔女を追う~  作者: 景都 (けいと)


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第9話 逃走

 二人を先に行かせて、私は路地の角に残った。

 角の向こうから近づいてくる足音に耳を澄ませ、石畳に雷を這わせる。

 通りで人の倒れる音が三つ続いて、途絶えた。

 すぐには立てないはず。

 今夜、何度目の術かは、もう数えていない。

 指先が痺れて、しばらく感覚が戻らなかった。


 教会の裏へ回ると、先を行く背中に追いついた。

 その肩から、クシェルさんの腕が垂れている。


「エルザ!」

「姉さん!」


 シャーリーさんは、教会の壁にもたれて座っていた。

 目は開いている。

 開いているだけで、私が来ても、こちらを見なかった。


「長居はできねぇ。あれ、使えるか」


 背負ったまま、カイェンさんが教会の脇を顎で指した。

 壁に沿って、幌の破れた荷車が置き捨てられている。

 行商の人の荷車。

 持ち主は、たぶんもう、この村にいない。


「使えます。でも、馬が」

「柵に帝国の馬が繋いであった。一頭借りてくる」


 借りる、と言った。

 返す気はないのだと思う。


 荷台に下ろすのを、エルザと支えた。

 カイェンさんから剣を受け取って、倒れた彼の手が届く所に置く。


 額に当てた手のひらを、私はすぐに離した。

 怪我人の熱なら、何人も看てきた。

 これは違う。

 火にかけた鍋の蓋のように熱いのに、汗ひとつかいていない。


 エルザが覗き込んで、小さく聞いた。


「……息は」

「ある。でも、熱がひどいの」


 柵のほうへ、カイェンさんの足音が遠ざかっていく。

 エルザが手を引くと、シャーリーさんは立ち上がって、荷台の隅に黙って座った。


 宿まで家を三つ。

 十人の怪我人と、リグレットがいる。


「姉さん。行くの?」


 エルザに袖を掴まれていた。

 足がもうそちらを向いていた。

 さっきの兵が起き上がれば、この辺りから探し始める。

 私が今あの戸を開ければ、怪我人の隠れ場所を教えることになる。


「行かない」


 行けない……。

 袖を掴む手がゆるんだ。


 留守を任せたまま、私たちは帰らないことになる。



 蹄の音が戻ってきて、荷車の前に馬が繋がれた。


「どこへ向かう」

「レイナードへ。司祭様が向かわれた、隣国の街です」


 私とエルザの、生まれた街でもある。帰るなら、もう少しましな形で帰りたかった。

 帝国の鞍のついた馬が、行商の荷車を引く。

 笑えない取り合わせで、私たちは村を出た。




「追われてるかね、こりゃ」


 御者台からの声に私が答えた。


「追われていますよ、きっと」

「だろうなぁ」


 カイェンさんが短く笑った。

 笑う人がいてくれるのは、ありがたい。


 残っていた荷の中に、染めていない厚い布が二枚と、水の入った革袋が一つあった。

 布の一枚を、クシェルさんに掛ける。

 車輪の音の中で、その端を革袋の水で濡らして、額に当てた。

 当てたところから、布がすぐ乾いていく。濡らし直して、また当てた。


 エルザは肩口の傷を見ていた。

 裂かれた所は塞がっている。塞ぐところまでは、できた。

 それでも熱には妹の術も届かなかった。


「姉さん。手が震えてる」

「荷車が揺れるからですよ」

「……そう」


 エルザは何か言いかけて、やめた。


 荷台の反対側で、シャーリーさんが膝を抱えている。

 顔は上げているけれど、何も見ていない。

 あの人形と、父親の体。

 宿を出て走った時、私も見た。

 走って、撃って、何かをしている間は、何も考えなくて済んだ。

 座ってしまった人には、それがない。


 もう一枚の布を、シャーリーさんの肩に掛ける。


 荷台の後ろへ目をやった。

 村の火はもう、丘の向こうに隠れている。

 空の下のほうだけがまだ赤い。

 あの赤の下に、リグレットと十人を置いてきた。


 目を戻すと、彼の眉の間に、浅い皺が寄っていた。

 眠っている顔というより、何かと戦っている顔。

 悪魔憑きの腕を落とした後も、この人は私に、平気だと言った。

 師団長相手でも、一歩も引かなかった。

 引かない人が、今は目を閉じて戦っている。


「ミリザ、見すぎじゃない?」


 目が合った。

 その目に、少しだけ光が戻っている。

 よかった。

 それが先にきて、返す言葉を探したのは、その後だった。


「看病ですよ? シャーリーさんの分も看ていますから、お礼は後でまとめて」

「……何それ」

「やっと喋りましたね」


 今度は、腕の中に顔を隠してしまった。

 肩が少し動いた。

 泣いているのか、笑っているのか。

 どちらでもよかった。

 止まっていた所から動いたのだから。


 彼の首筋に手を当ててみた。

 熱い。

 この人は、何なのだろう。

 聞くつもりはなかった。

 聞かないで看ているほうが、今は役に立つ。



 荷車の揺れに、うとうとしかけていた。

 彼の唇が動いた。


「……構えが、低い」


 寝言だった。

 この人の話し方ではなかった。誰かの口ぶりを、そのまま真似ているように聞こえた。


「……もう、いちど」


 聞き取れたのは、それだけだった。

 瞼は動かない。


「クシェルさん?」


 手を取った。指の先まで熱くて、力がまるで入っていない。

 それなのに、その指が動いた。何かを握ろうとする形だった。

 私は、その手をそっと布の下に戻した。


 夜が薄くなってきた頃に、彼は目を開いた。


「ここは」

「荷車の上ですよ。レイナードに向かっています。喋らないで」

「シャーリーは」


 最初に聞くのが、それだった。


「ここにいるわ。……バカ」


 荷台の反対側から声が返った。

 それを聞いて、また目を閉じた。閉じても、眉の皺はほどけなかった。


「村は」

「リグレットが残っています。怪我人と一緒に」


 答えてから、自分の手が布を強く握っていることに気がついた。


「そうか」


 喉が一度だけ動いて、それ以上は、聞いてこなかった。


「少しでも眠ってください」

「……平気だ」

「平気と言う人ほど、長引くんです」


 返事はない。

 眠ってくれたなら、それでいい。


 馬がいきなり足を止めた。

 止めたのは、手綱じゃない。

 馬が自分で止まって、耳を前に立てている。


「……カイェンさん?」

「静かに」


 街道の先に、朝靄がかかっている。

 人の姿は見えない。

 靄の中から、鳥が一斉に飛び立った。

 御者台で弓を取る音がした。

 目を閉じたままの彼の指が、剣の柄を探している。

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