サシャの僕
――――時は遡る事少し前。
船から降り、氷上でメルティアの手当てをしていたチャグとクレスだが、なんとか手当を終え、クレスの腕の浸食も止まり一息ついていたところ、甲板のほうからなにかひらひらしたものが風に煽られながら、あっちへいったりこっちへいったりしながら少しずつ落ちてきた。
「………?」
「あ? どうした…………って、ありゃあ…………フーディエか」
落ちてきたものがクレスの頭上までせまったところとチャグの言葉で、ようやくそれの正体がわかった。
一言でいえば、蝶の切り絵だ。しかし、本物と見間違うような精密なものではなく、蝶を描いてみろ、と言われた子供が大雑把な輪郭のみ描いて作り上げたようなものである。触覚も胴体もなく、かろうじて四枚翅が一枚の紙で切り取られて出来上がったシルエットのような稚拙な蝶の一枚絵。模様も顔もその蝶には描かれておらず、傍目から見れば蝶の形に切られた白い紙が風に飛ばされひらひらと落ちてきているだけに見える。
フーディエと呼ばれた紙のような蝶は風に飛ばされながらも、不思議なことに着実にクレスたちの元へ近づいていき、最終的に差し出したチャグの掌に収まった。
「えーと、なになに…………」
チャグは掌のフーディエをじっと見つめているかと思えば、いきなりゲ、と顔をしかめた。
「あー、坊主、ちょっとその嬢ちゃんに………………なにも危害は与えねえって……」
溜息を吐き、チャグがクレスに話しかけようとしたが、メルティアの名前を出した瞬間鋭く睨み付けられ、一気に脱力する。
「なんもしねえつってんだろ。なんならお前がやってくれていいからよ……」
チャグは両手をあげて触れる意思はないことを示す。それを見て警戒を解いたかはわからないが、クレスの視線から殺意は薄れた。
「……」
クレスが先を話すよう促す。それに対して、クレスは話しづらそうにそっぽを向き、フーディエを指差しながら尋ねた。
「あーっと……、嬢ちゃんの服にこれとおんなじもの引っかかってねえか?」
「……?」
怪訝な顔を向けながらも、クレスは大人しくチャグの言葉に従い、メルティアの服を簡単に調べる。
「……、……!」
すると、メルティアが身につけていたケープの内側から、待ってました、とばかりにチャグの掌のよりも幾分小さくなった形の蝶の切り絵が滑り落ちてきた。
「……」
クレスがその切り絵を手に取ろうとすると、切り絵はひとりでにその翅をパタパタとはためかせ、自力で浮かび上がった。
「…………!?」
浮かび上がった切り絵はチャグの掌のフーディエの元まで行くと、その上に重なり、ボゥっと淡く発光した。
光の中で重なり合った二羽の蝶は溶けるように混ざり、わずかにサイズの大きくなった一羽の蝶へと変わった。
「姐さんもちゃっかりしてるよな~。去り際に仕込んどいたんだとよ……って」
――いきなり、チャグの掌ごとクレスの爪がフーディエを切り裂いた。
「いって~~~~~~!!!?? ――――……なにすんだてめえっっ!!!」
痛みに悶絶したのち、涙目を浮かべながらも傷付いてないほうの拳でクレスの頭を殴った。
その後すぐさまクレスから手を庇うように後ろを向き、引っかかれた手のひらを確認する。幸い、反射的に手を引っ込めたので思ったよりも傷は浅く、出血もわずかだった。
一方、もろに全身を引き裂かれたフーディエはチャグの手のひらから離れ、ひらひらと落ちていく間に切り裂かれた身はポロポロと崩れていった。
「……?」
よく見ると、崩れていった破片は全て先程よりもさらに極小サイズの蝶の姿へと変わっていた。切り裂かれた身体の破片が全て微量サイズの蝶へと変わると、蝶の群体は再び集まり合体して元のサイズの蝶に戻った。
「……なーに固まってんだ。こいつは姐さんの特別製。そっとやちょっとのことでは壊れねえよ。仮にこいつを消し炭にしたとしても分身体だからな。すぐに替えはある」
チャグが再び差し出した手にフーディエがとまり、チャグの方も微妙にクレスと距離をとる。
「…………」
「おい今舌打ちしやがったか? 可愛くねえガキだなおい」
クレスはチャグの悪態に反応することなく、チャグに対する態度とは打って変わって柔らかな手つきでメルティアを抱え上げる。
今にも無言で歩き出そうとしているクレスに焦ったのはチャグだ。
「ちょ、待てって。どこ行く気だよ。まさかこのまま帰る気か?」
「……」
クレスは返事をするのも億劫そうだったが、振り返って頷いた。
「待てよ。お前にはこれからやってもらわなきゃ困ることがあんだよ」
チャグが引き留めようとするが、クレスは背中の翼を広げ飛び立たせようと身を屈ませ、飛び立つ体勢に入った。
「――おい! 今お前がここを去ったら、その嬢ちゃんが悲しむことになるぞ!」
ピタリ、とクレスは屈んだ体勢のまま動きを止め、怪訝そうに振り返る。
クレスの反応にチャグは内心占めた、と思いながらも表情には出さず、あくまで冷静に返す。
「その嬢ちゃんは俺達がここに来る前にこの船ん中で何かを助けようとしてたらしい。今ここでそれを置いて帰るってんなら、その嬢ちゃんが起きた時、お前がそれを見捨てたって結果になる。そしたら嬢ちゃん、悲しむんじゃねえか?」
これは一種の賭けだ。正直、チャグにメルティアとの面識はない。会話をしたサシャからも詳しい話は聞いていないので、メルティアの性格はチャグの勝手な憶測だ。もし外していた場合、チャグよりもメルティアと親しいクレスは、気にせずそのまま去ってしまうだろう。
『……何故メルティアがしようとしていたことを知っている?』
メルティアを両手に抱え、いつでも飛びたてる体勢でいながら、クレスは動かない。代わりに空中に魔力で文字を描いてきたので、どうやらクレスの関心を一応ひけたらしい。
「こいつ……フーディエって名前なんだが、諜報・連絡専門の姐さんの僕でな。今日はあの街一帯に飛ばしていた」
目立たないサイズでな、とチャグが告げると同時に、フーディエの姿が一瞬で分解され極小サイズへと変わり、一斉に飛び立つ。
「…………っ」
微風とともにクレスの視界を覆った蝶はしかしすぐさま踵を返し、再びチャグの手のひらで合体した。
「姐さんがそこの嬢ちゃんに会った後、こいつを嬢ちゃんにひっつけて居場所の確認ができるようにしていた…………――おっと、確認だけさ。四六時中監視なんてする気も暇もないから安心しろって!」
クレスの周りに怒気が漂い始めたのでチャグは慌てて弁明する。
「――――……で、こいつは嬢ちゃんにひっついたまま、一緒にこの船に入って、そっから姐さんとこの別のフーディエに救難信号が届いた。一応こいつら一体一体には簡単にだが自我を持っていて、ある程度は自力で判断できるようになってる。だから姐さんは俺を連れてここまで来れたんだよ」
チャグがこれまでの経緯を簡単に話し終えてクレスを見上げると、クレスは少し考え込む様子を見せ、その後メルティアの体を抱え直し始めた。それは再び飛び立とうとするようにも見えて――――、
(は~~? ここまで言っても説得無理だってのかよ。姐さんもそうだが神ってヤツぁ…………)
しかし、クレスはメルティアを抱え直したまま動こうとしない。
「………………あり?」
『なにをすればいい』
「…………ん?」
クレスの描いた文字の意味を理解するのに数秒かかった。
「……手伝ってくれんの?」
『……やることがないなら行く』
「わー待てって待て! 冗談だ! お前じゃねえと出来ねえんだよ!」
しばし固まることもクレスは許してくれず、チャグは慌てて引き留める。
「と、とりあえず手え貸してくれるってんなら話は早い。今姐さんが上の方で注意を引いて……」
――その時、クレスとチャグはほぼ同時に甲板のほうで魔力が急激に高まるのを感じ取り――――。
次の瞬間、辺り一面に眩い閃光と衝撃が襲い掛かってきた。
「…………!?」
「うわ……っ」
衝撃波をなんとかやり過ごした後、咄嗟に氷の上に這いつくばり、吹き飛ばされることを免れたチャグは、おそらく衝撃の発生源であろう甲板を見上げる。翼でメルティアごと自分の体を包み込み、その場に踏み止まったクレスも同じように甲板を見上げた。最も、状況がいまいち判断できていないクレスに対し、チャグは明確に怒りを露わにしているという違いはあった。
見上げた甲板からはもくもくと黒煙が上がっており、続いて断続的に打撃音と破砕音が聞こえてきくる。心なしか、誰かの笑い声が聞こえてくるような……。
クレスはよくわからない状況について自分よりはわかっていそうなチャグの方を見ると、彼は怒りの表情のまま、クレスとメルティアの無事を確認し、ガシガシと自分の頭をかいていた。
やがて大きなため息を吐くと、やっつけのように上空へ向けて叫んだ。
「…………あんっっの人は! 時間稼ぎの意味わかってんのか!? なんで時間稼ぐどころか船の沈没時間早めてんだよ! 絶対今のでどっか浸水したぞおい!」
チャグの口から真っ先に出たのは己の主を案ずる言葉ではなく、むしろまごうことなき文句であった。
『……主じゃないのか』
「…………あ? 主に決まってんだろ」
おそらく甲板の方から続いている騒音に紛れ、伝えたかった主のもとへ届いてはいないだろうが、叫んだ本人は気が済んだのかケロッとしていた。
「さーて、姐さんにこの船沈められる前にやっちまうか」
そう言ってチャグは船の壁を見つめながら軽く考え込むと、振り向いてあっけらかんと言い放った。
「…………よし、作戦変更だ。坊主、――――この壁、ぶっ壊せ」




