第10話 家の裁量でございましょう
〈結納目録 第三十七項から第四十項まで ――本日、四点。ただし午前は応接の間にて〉
応接の間へ通されましたのは、十年で二度目でございます。
一度目は婚約の日でございました。あのときは十二で、椅子に座りますと足の先が床に届きませんでした。
いまは届きます。
ミレーユ様は窓を背にしてお掛けでいらっしゃいました。脇の小卓に針箱が出してございます。朝のうちに繕い物をなさっていたのでございましょう。
アルド様は、その斜め後ろにお立ちでいらっしゃいました。お掛けにならないのでございます。
「おはようございます」
「座りなさい」
わたくしは腰を下ろして、膝の上に帳面を置きました。
「その帳面を、しまいなさい」
「かしこまりました」
わたくしは帳面を膝から下ろして、脇へ置きました。しまいなさいと仰いましたので、しまいました。持って帰りなさいとは仰いませんでした。
「バルテルから、書きつけを受け取りました」
「はい」
「二百二十枚とありましたね」
「五日目までの分でございます。昨日で六百枚を超えました」
ミレーユ様の指が、針箱の縁で一度止まりました。
「あなた、何をしているつもりですか」
「数えております」
「数えて、この家から金子を取るおつもりですか」
「契約書に、そう書いてございます」
「契約書」
ミレーユ様は、その語を口の中で転がすように仰いました。
「十年前の紙でしょう」
「はい。十年前の紙でございます」
「十年、この家はあなたの家と付き合ってきました。付き合いというものは紙の上のことではありません」
「さようでございます」
「では、お分かりでしょう」
「分かりますことと、書いてあることは、別でございます」
ミレーユ様が、はじめてまっすぐこちらをご覧になりました。
「あの品は、この家の蔵にありました」
「はい」
「この家の蔵にあるものを、この家がどう使おうと、家の裁量でございましょう」
来た、と思いました。
この言葉が来るのは分かっておりました。五日前、書面を受け取れないと仰ったときから、この形になるだろうと思っておりました。
わたくしは脇に置いた帳面へ手を伸ばしました。
「しまいなさいと申しました」
「はい。しまいましたので、もう一度出します」
ミレーユ様が何か仰りかけました。わたくしはその前に、帳面のいちばん後ろの頁を開いて、卓の上に置きました。
署名が十、並んでおります。
「これは」
「毎年、年の終わりに頂戴してまいりました。こちらの家令バルテル様のお名前でございます」
ミレーユ様が身を乗り出されました。
「何の署名です」
「確かにお預かりしております、という署名でございます」
わたくしは指で一つずつたどりました。十年前、九年前、八年前。三年前のところで、字が少し細うなっております。
「お預かりしている品でございますから、蔵にございました。この家のものでございましたら、そもそも預かるという言葉は使いません」
部屋が鳴りませんでした。誰も何も仰らないと、部屋というものは鳴らないのでございます。
「……バルテルを呼びなさい」
アルド様が扉のところへ行かれて、廊下の者にそう伝えられました。
待つあいだ、わたくしは針箱を見ておりました。
蓋が開いたままでございます。中には糸が七つか八つ巻いてございました。生成りが二つ、黒が二つ、藍が一つ、それから、紅が一つ。
紅は、細うございました。
バルテル様が入っていらっしゃいました。
「奥様」
「この署名は、あなたのものですか」
バルテル様は卓の上の頁をご覧になりました。ご覧になって、こう仰いました。
「わたくしのものでございます」
「誰に書けと言われました」
「どなたにも」
「では、なぜ書きました」
「お預かりしたものでございますので」
ミレーユ様が椅子の背へ体を戻されました。戻して、少しのあいだ、窓のほうを向いておられました。
「セリーヌさん」
「はい」
「あなたは、この家を潰すおつもりですか」
「いいえ」
「では、どうなさるおつもりです」
「数え終えましたら、書面を一枚お渡しいたします。ございました品と、ございません品と、その評価額でございます。あとは、両家でお決めいただくことでございます」
「決める、と申しますと」
「現物でお返しいただくか、評価額をもって充てていただくか。第九条にはその二つしか書いてございません」
「払うものなどありません」
仰った声は、大きくはございませんでした。大きくないぶん、はっきりしておりました。
「この家に、そんな金子はありません」
アルド様が、母上のほうをご覧になりました。この方が、はじめて母上のお顔を正面からご覧になったのを、わたくしは見ました。
わたくしは帳面を閉じて、両手で持ちました。
「本日は、第三十七項から第四十項までを検めます。午後からになりますので、四点でございます」
立ち上がって、扉のところで一度振り返りました。振り返りましたのは、一つだけ申し上げておこうと思ったからでございます。
「奥様」
「なんですか」
「第二十八項の茶器の欠けでございますが」
ミレーユ様が針箱の蓋に手を掛けられました。
「白漆の詰め方が、たいへんよい手でございました。糸の留め方も、まっすぐでございます」
「……それが」
「繕えるものは、繕っていただけたほうがよろしゅうございます。返していただくものでございますので」
わたくしは頭を下げて、部屋を出ました。廊下の途中で、後ろの扉が閉まる音がいたしました。
閉めたのが、どなたかは存じません。
「この家の蔵にあるものを、この家がどう使おうと家の裁量でございましょう」――そう仰いました。預かる、という語をお使いになったのは、あちらのほうでございます。十年ぶんの署名が、十。次回は、書けと言われなかったことを三十年ぶん覚えている老家令のお話でございます。――評価の☆は、家令の署名よりも数えやすうございます。五つまで頂戴できるそうでございます。




