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改革、始動

洪水を防いだ翌週から、俺は灰の谷の内政に正式に手を入れ始めた。まず取り掛かったのは、税と会計の仕組みだ。ハロルドの案内で、館の会計を長年任されている男――ダレンという名の中年の役人に会うことになった。

「代理領主様が、税の取り方を変えるおつもりだと伺いましたが」

ダレンは開口一番、そう切り出した。歓迎の色は微塵もない。むしろ、明確な警戒が滲んでいた。

「収穫直後の一括徴税をやめて、収穫後と年明けの二回に分けたい。種籾用の麦まで手放す農家が多いと聞いています。分割にすれば、その負担を減らせるはずです」

「前例がございません。歴代の代官様も、そのようなことは一度もされませんでした」

「前例がないのは、誰も試さなかったからでしょう」

俺がそう言うと、ダレンの顔が僅かに強張った。

「試して、失敗した場合、責任を取るのは私です。代理領主様は、いずれ本領にお戻りになるかもしれませんが、私はこの領地で生きていかねばなりません」

その言葉には、単なる保身以上の重みがあった。前世でも、現場を長く預かってきた人間ほど、変化を恐れる理由をはっきりと持っていることが多い。彼らは怠けているわけではない。むしろ、誰よりも失敗の代償を知っているからこそ、動けなくなっているのだ。

前世で似たような人間に会ったことがある。二十年、同じ店舗の発注を担当してきたベテランの社員だった。新しい発注システムを導入しようとした時、彼は誰よりも強く反対した。

「システムが間違ったら、誰が責任を取るんですか」

何度もそう繰り返された。結局、彼を動かしたのは説得ではなく、小さな成功事例を一つずつ積み重ねて見せることだった。理屈で説得できない不安は、たいてい実績でしか解けない。

「ダレンさん。あなたがこの領地の会計を、これまで何年見てきたんですか」

「……十二年になります」

「十二年、代官が何人も入れ替わる中で、あなただけがずっと残ってきた。それは、あなたが誰よりもこの領地の実情を知っているということです。俺はあなたを外すつもりはありません。ただ、判断の材料を、もっと増やしたいだけです」

ダレンは何も答えず、ただ帳簿を抱えたまま部屋を出ていった。すぐには信用されない。それは分かっていた。

その夜、フィリアと共に、ダレンのこれまでの記録を見返した。彼女の帳面には、ダレンが毎年きちんと数字を残してきた記録が並んでいる。杜撰な部分は少ない。ただ、判断が必要な場面では、常に「前例通り」を選び続けてきた形跡があった。

「ダレンさんは、五年前の代官――デイヴィット・モーガン様の不正の匂いに、気づいていたのではないでしょうか」

フィリアがぽつりと言った。

「気づいていて、何も言えなかった、ということですか」

「証拠は残っていません。ですが、あの『特別経費』の項目が記帳された年、ダレンさんの筆跡だけが、いつもより乱れています」

もしそうなら、ダレンが変化を恐れる理由に、もう一つの層が見えてくる。かつて声を上げられなかった後悔が、今の頑なさの裏にあるのかもしれない。

翌日、俺はダレンに改めて声をかけた。今度は会議室ではなく、館の裏手にある小さな書庫でのことだった。彼はそこで、古い帳簿を一人で整理していた。

「ここに、五年分の記録がすべて残っているんですね」

「捨てるべきだと言われたこともありますが、どうしても捨てられませんでした。いつか、誰かがこれを必要とする日が来ると思っていたので」

「その勘は、正しかったかもしれません」

ダレンは手を止め、俺の方を見た。

「代理領主様は、私を試しておられるのですか」

「試しているつもりはありません。ただ、あなたが十二年間ここで見てきたものを、これから一緒に使わせてほしいと思っています。俺とフィリア嬢だけでは、この領地のすべての事情を知ることはできません」

ダレンはしばらく黙り込んでいたが、やがて古びた帳簿を一冊、俺の前に差し出した。

「これは、モーガン様が異動される直前の記録です。私なりに、疑問に思った点を裏で書き留めておいたものです。今まで、誰にも見せられませんでしたが」

俺はその帳簿を受け取り、静かに頷いた。

「必要な時に、必ず活かします」

その夜、俺はフィリアにダレンから受け取った帳簿を見せた。彼女は一頁ずつ丁寧に目を通し、時々小さく息を止めた。

「――やはり、税収の記録に不自然な動きがあります。モーガン様が異動される前の半年間、特定の商人との取引だけが、極端に有利な条件で結ばれています」

「その商人の名前は」

「グレッグ商会、と記されています。聞いたことのない名前です」

「王都か、それに近い場所の商会でしょう。サイラス殿に、この名前も一緒に調べてもらえるか、聞いてみます」

俺たちはその夜、灯りを落とすのも忘れて、古い帳簿の中に眠っていた小さな違和感を、一つ一つ丁寧に拾い上げていった。まだ全体像は見えない。だが、灰の谷という一つの小さな領地の問題が、思っていたより大きな何かに繋がっているという予感が、少しずつ確かなものになっていった。

数日後、館の裏で、俺はダレンが一人の使者に封書を渡している場面を偶然見かけた。使者は本領の方角へ向かう馬に乗り、すぐに姿を消した。ダレンは俺の視線に気づくと、一瞬だけ動きを止め、それから何も言わずに館の中へ戻っていった。

何が書かれていたのかは分からない。だが、想像はついた。代理領主が独断で制度を変えようとしている、という報告が、遠からず本領に届くだろう。

前世でも、本部の意向を無視して現場を変えようとすれば、必ず誰かが上に報告する。それ自体は、責めるべきことではない。組織はそうやって成り立っている。問題は、報告された内容が、正しく伝わるかどうかだ。

「気にしていますか」

フィリアが隣で尋ねた。

「多少は。ただ、今できることは変わりません。結果を出し続けることだけです」

俺はそう言って、卓上に広げた地図に目を戻した。灰の谷の改革は、まだ始まったばかりだった。

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