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濁流を止めた男

村の長老――老齢の農夫であるオズワルドは、俺たちの訪問をあまり歓迎していなかった。

「代理領主様が来られたところで、この土地はどうにもなりませんよ。歴代の代官様たちも、皆そう言って諦めていきました」

その言葉には、諦めと、それでも縋りたい気持ちが入り混じっていた。前世でも、何度も似たような台詞を聞いた。もう何をやっても無駄だと思い込んでいる現場ほど、実は改善の芽が眠っていることが多い。

「今年の雨季は、いつ頃始まりますか」

俺がそう尋ねると、オズワルドは怪訝な顔をした。

「……あと十日か、二週間もすれば。ですが、それを聞いて何をなさるおつもりで」

「今年の雨季で、水路が決壊する場所を教えてください。長年見てきたあなたなら、大体の見当がついているはずです」

オズワルドは少し考え込み、それから杖の先で地図の数か所を指した。

「毎年決まって、ここと、ここが崩れます。土手が低いうえに、水が集まりやすい形になっておりまして」

フィリアがすぐに帳面を取り出し、過去の収穫量の記録と決壊した年を照らし合わせていく。

「――決壊した年は、例外なく収穫量が例年の四割以下に落ちています。逆に決壊しなかった年は、旱魃であっても六割は確保できています」

「つまり、洪水そのものより、決壊による被害の方が大きい、ということですね」

前世の記憶が、また勝手に働き出す。店舗の売上が落ちる原因は、たいてい一つの大きな問題ではなく、複数の小さな要因が重なっている。今回も同じだ。天候そのものはどうしようもないが、決壊さえ防げれば、被害は大幅に減らせる。

「オズワルドさん。土手を補強する人手を、集めてもらえますか。工事の指示は俺が出します」

「補強するにも、材料も人手も足りません。歴代の代官様も、そこで諦めていかれました」

「材料は、俺が何とかします」

俺はそう言い切った。実際のところ、確証があったわけではない。だが、あの夜に感じた「流れ」を思い出していた。前世の店舗改善でも、最初の一手は、いつも半信半疑の状態から踏み出すものだった。データが完璧に揃うのを待っていては、何も始まらない。

雨季が近づいたある日、俺はオズワルドが指した二か所の土手に立ち、両手を地面につけた。目を閉じ、体の中を流れ続けているはずの魔力を、意識的に土手の方向へ引き寄せる。

最初は何も起きなかった。だが、集中を続けるうちに、土の中の何かが、じんわりと変化していく感覚があった。

「――土手の色が変わっています」

フィリアの声がした。目を開けると、俺が手をついていた土手の土が、周囲よりも締まって、硬く変質しているのが見えた。

「魔力を土に馴染ませて、地盤そのものを固めたつもりです。うまくいっているか、正直まだ半信半疑でしたが」

オズワルドが恐る恐る土手を踏みしめ、驚いた顔をした。

「これは……何年も乾かしても、こうはなりません。まるで石のようだ」

俺はその日から十日間、村人たちと共に二か所の土手に通い、地盤を固める作業を繰り返した。並行して、フィリアの計算に基づいて、決壊した際の避難ルートと、避難にかかる時間を洗い出し、村人たちに周知した。前世で言うなら、災害対応マニュアルの整備、といったところだろうか。誰がどこへ逃げ、誰が何を持ち出すか。当たり前のようで、誰も紙に書いたことがない情報だった。

作業の四日目、力の使い方にまだ慣れず、俺は昼過ぎに眩暈を起こして畑の畔に座り込んでしまった。フィリアが水を持って駆け寄ってきて、何も言わずに隣に座り、水筒を差し出した。

「無理はしないでください。あなたが倒れたら、この計画そのものが止まります」

「――すみません。加減が、まだよく分かっていなくて」

「加減が分からないなら、私が記録します。今日は何回、どれくらいの時間集中したか。次からは、その記録を基に休憩を挟みましょう」

フィリアはそう言うと、早速帳面に何かを書き込み始めた。魔力の使用量そのものは測れないが、俺の疲労の出方を数字として残しておくという発想に、俺は思わず笑ってしまった。前世でいうシフト管理そのものだ。彼女の帳面は、いつの間にか領地の数字だけでなく、俺自身の管理まで担うようになっていた。

雨季が始まった日、灰の谷には数年ぶりという規模の大雨が降った。

俺とフィリア、オズワルドは、補強した土手のそばで夜通し水位を確認し続けた。水は土手のすぐ近くまで押し寄せ、何度も溢れそうになった。しかし、決壊はしなかった。

真夜中、一度だけ水位が急に上がり、土手の一部から水がにじみ出す瞬間があった。オズワルドが顔面蒼白になり、村人たちの間に悲鳴に近い声が上がった。俺はとにかく地面に手をつき、意識を集中させた。にじみ出た水の下の土が、みしりと音を立てて締まっていくのを感じる。焦りと引き換えに、いつもよりずっと強く「流れ」を感じ取れた。数十秒後、にじみ出た水は止まり、土手はそれ以上崩れなかった。

「……大丈夫、です。まだ、持っています」

俺がそう言うと、フィリアが小さく息を吐き出す音が聞こえた。彼女がその後もずっと、俺の隣で帳面を抱えたまま水位を記録し続けていたことを、俺は後になって知った。

「持ちました……! 持ちましたよ、ルーク様!」

夜明け近く、水位が下がり始めたのを確認したオズワルドが、声を震わせて叫んだ。長年、何度も決壊を見てきた彼の目に、涙が浮かんでいた。

村を回ると、他の場所では例年通りの浸水被害が出ていたものの、オズワルドの指した二か所は、見事に決壊を免れていた。麦畑への被害も、過去数年に比べて明らかに小さい。

一人だけ、最後まで俺たちのやり方に懐疑的だった老農夫のギデオンが、決壊しなかった土手を自分の足で何度も踏みしめ、無言のまま深く頭を下げてきた。彼が最初にオズワルドの提案に反対していたことを、俺は知っていた。結果でしか納得しない人間がいることも、前世で何度も経験している。だからこそ、結果を見せることに拘った。

「今年の収穫は、たぶん例年の八割は残せます」

フィリアが帳面を見ながら、静かにそう告げた。彼女の声には、隠しきれない安堵と、僅かな興奮の色があった。

村人たちの間に、明らかな変化が起きていた。これまで「無能の代理領主」という目でこちらを見ていた者たちが、今は明確な期待の色を浮かべている。子どもたちが遠巻きに俺の様子を窺い、老婆の一人が家から出した干し果物を、無言でフィリアの手に押し付けていった。

「ルーク様、フィリア様。この御恩は忘れません」

オズワルドが深々と頭を下げ、周りの村人たちもそれに続いた。

その一方で、この出来事は、灰の谷だけの話では終わらなかった。近隣の行商人を通じて、辺境の小領地で代理領主が土手を守り切ったという話が、少しずつ周辺に広まり始めていた。まだ本領に届くには時間がかかるだろうが、遅かれ早かれ、父上や兄クレインの耳にも入るはずだ。俺はその時、まだそのことをさほど気にしていなかった。

翌日、俺はハロルドと共に、決壊を免れた区間の記録を丁寧に帳面へまとめた。土手のどこを、どれだけの深さまで補強したか。作業に要した日数と人手。今回はうまくいったが、次の雨季、その次の雨季でも同じ結果を出せるとは限らない。再現できる形に残しておくことが、前世で言う「マニュアル化」であり、俺にとっては何よりも重要な作業だった。一度だけの成功では、誰も本気で信じてくれない。二度、三度と積み重ねてこそ、初めて「たまたま」ではなくなる。

その夜、館に戻った俺とフィリアは、ハロルドが用意してくれた温かいスープを前に、しばらく言葉もなく座っていた。

「――正直に言うと、半分も信じていませんでした。魔力ゼロのあなたが、土手をどうにかできるなんて」

フィリアがぽつりと言った。

「信じていなかったのに、同席してくれたんですね」

「他に信じられるものがなかったからです。あなたの言葉と、私の数字。それだけしかありませんでしたから」

フィリアはスープの器を両手で包み、少しだけ笑った。今日、初めて見せる、はっきりとした笑顔だった。

「今回のことで分かりました。あなたは無能ではありません。ただ、この世界の測り方に合わないだけです」

「それはあなたにも言えることです」

俺たちは、それ以上多くの言葉を交わさなかった。だが、その夜の沈黙は、初めて心地よいものだった。

翌朝、ハロルドが少し慌てた様子で報告に来た。

「ルーク様。本領から、定期の連絡便が届いております。……今回の雨季の被害状況を尋ねる内容ですが、灰の谷の名が久しぶりに、罰則ではない理由で本領の書状に載りました」

これまで、本領から灰の谷への連絡は、税の催促か、代官の異動の知らせのどちらかだけだった。被害状況を尋ねる、というだけの内容が、俺には奇妙に新鮮に響いた。まだ何も大きく変わったわけではない。ただ、灰の谷という名前が、罰ではない文脈で誰かの目に触れた。それだけで十分だった。

灰の谷での最初の一勝。だが、これはまだ始まりに過ぎない。財政の立て直し、流通の再構築、そして本家からの妨害――前世の経験を総動員しても、道はまだ長い。

窓の外では、雨上がりの月が、久しぶりに晴れた灰の谷の空を照らしていた。

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