帳簿の中の異能
フィリアの説明は、三時間に及んだ。
灰の谷の人口はおよそ四百二十人。かつては千人を超えていたが、飢饉と重税を理由に他領へ逃げ出す領民が絶えず、今の規模まで縮んでいる。主な産業は麦の栽培だが、収穫量は年々減少している。直近三年は税収だけでは領地の維持費用を到底カバーできていない。加えて、洪水と旱魃が交互に襲うという異常な気候のせいで、翌年の見通しすら立てられない状態だった。
「本領からの補填で、かろうじて維持しているというのが実情です。ただ、その補填も年々渋られるようになってきました」
フィリアは帳面を見ながら、淀みなく数字を並べていく。彼女の話には、感情的な誇張が一つもなかった。ただ事実だけが、正確な密度で積み重なっていく。前世で似たような報告を、俺は何百回も受けてきた。ただ、たいていの報告者は、都合の悪い数字を曖昧にしたり、逆に危機感を煽るために大げさに語ったりする。フィリアの報告には、その両方の癖がまったくなかった。
「フィリア嬢。一つ聞きたいのですが、あなたはどうしてここまで正確に数字を把握しているんですか」
「……理由が必要ですか」
「必要というより、単純に驚いています。この規模の領地の数字を、これだけ細かく、しかも即座に把握できる人間を、俺は今までほとんど見たことがありません」
フィリアは少し黙り込んだ。答えるかどうか迷っている様子だった。
「――幼い頃から、数字だけは頭に入りやすかったんです。一度見た数字は忘れませんし、複雑な計算も、頭の中で組み立てれば答えが出ます」
「それは、かなり特別な才能だと思いますが」
「特別、というより……厄介、と言われてきました」
フィリアの声が、少しだけ低くなった。
「実家では、社交の場で数字の話をすると、はしたないと叱られました。魔力が低いことに加えて、令嬢らしくない才能を持っていることも、私を『無価値』と呼ぶ理由の一つでした。数字が読めることに、誰も価値を見出さなかった」
俺は、その話を聞いて内心で舌打ちしたくなった。前世でも、優秀な発注担当や在庫管理の名手が、単に「地味な仕事だから」という理由で正しく評価されない場面を、数え切れないほど見てきた。数字を読む力というのは、目に見える華やかさがない分、驚くほど過小評価されやすい。
「フィリア嬢。俺はその才能に、はっきりと価値を見出します。これから灰の谷を立て直すにあたって、あなたの力が絶対に必要です」
その言葉を口にした瞬間、フィリアの肩がわずかに強張った。褒められることに慣れていない人間特有の反応だった。俺は続けて、彼女の帳面の中から一つのページを指した。
「ここです。三年前の税収の記録、本領への報告書と数字が一致していません。差額は決して大きくありませんが、毎年少しずつ、同じ方向に食い違っている」
フィリアが目を見開いた。
「――気づいていたのですか。それは、私も気になっていた点です。前任の代官の時代から、帳簿の付け方が変わったタイミングと一致しています」
「つまり、単純な記帳ミスというより、意図的に数字を操作していた可能性がある、ということですね」
「断定はできません。ですが、可能性としては……」
俺たちは、その晩、燭台の灯りの下で、過去五年分の帳簿を並べて照らし合わせた。前世の棚卸し作業と同じだ。一つ一つの数字は小さな違和感でも、積み重ねれば全体の形が見えてくる。
「ここも、おかしいです。この年だけ、税収の内訳に『特別経費』という項目が挟まっています。前後の年には存在しません」
フィリアが指した箇所を見ると、確かに不自然な項目があった。金額は決して大きくないが、用途の説明が一切書かれていない。
「今すぐに追及しても、証拠が薄い。まずは記録し続けましょう。数字は、集め続ければいつか意味を持ちます」
「この『特別経費』が使われている年、代官は誰でしたか」
俺が尋ねると、フィリアは記録を遡り、一人の名前を指した。
「デイヴィット・モーガンという方です。五年前まで三年間、この地の代官を務め、その後、王都近郊の別の領地に異動になったと聞いています」
「その異動が、栄転だったのか、それとも――」
「分かりません。ただ、灰の谷の代官としては、彼だけが珍しく三年も続いた方でした」
三年も続いた代官がいたという事実は、それだけで奇妙だった。誰もが逃げ出すような任地に、なぜ彼だけは腰を据えていたのか。
「フィリア嬢。仮説として聞いてください。もしその代官が、報告する税収を実際より少なく見せ、その差額を別の名目で自分の懐に入れていたとしたら――収支は帳簿の上では成り立ちますが、領地には何も残らない。むしろ、蓄えが底をついていくのも当然です」
「――それなら、この五年間、灰の谷がなぜこれほど貧しくなったのか、説明がつきます」
フィリアの声が僅かに震えていた。怒りというより、長年の疑問が解けかけていることへの動揺だった。
「証拠を集めるまでは、誰にも話さないでください。今はまだ、可能性の一つです」
「分かっています。でも――もしこれが本当だったら、私はこの領地の人たちに、もっと早く伝えられなかったことが悔しいです」
「あなたのせいじゃありません。数字は嘘をつきませんが、数字を読める人がいなければ、誰も気づけない。今、気づけただけでも十分です」
フィリアはしばらく黒い燭台の火を見つめていたが、やがて帳面を閉じ、小さく息を吐いた。
「――ありがとうございます。そう言ってもらえたのは、初めてです」
「これからは何度でも言います。あなたの数字がなければ、俺は今夜、何一つ気づけませんでした」
窓の外では、雨季を控えた風が、館の木戸を小さく鳴らしていた。
「――あなたも、そういう考え方をするんですね」
「前の仕事で、似たようなことを何度もやりました。小さな違和感を放置せずに記録しておくと、後で大きな問題を防げることが多いんです」
フィリアは小さく頷き、新しい帳面の一頁を、そのためだけに割いた。二人で気づいた違和感を、これから積み重ねていくための、最初の一頁だった。
「――立て直す、とおっしゃいましたか」
フィリアが、初めてはっきりとした驚きの表情を見せた。
「この領地を、立て直すつもりなのですか。本家からも見捨てられ、税収は目減りするばかりの土地を?」
「そのつもりです」
「無謀だと思いますが」
「無謀に見える案件ほど、実は改善の余地が大きいものです。今の灰の谷は、悪い意味であらゆることが手つかずのままになっている。裏を返せば、手を入れれば入れた分だけ、確実に良くなる部分がたくさんあるということです」
前世の経験から、俺にはある程度の確信があった。灰谷店を立て直した時も同じだった。誰もが「もう手遅れだ」と諦めていた店ほど、実際に発注方法を一つ変えるだけで、驚くほど早く数字が改善することがある。問題が積み重なっている場所は、裏を返せば、改善の伸び幅が大きい場所でもあるのだ。
「参考までに聞きますが、あなたは本当に、貴族の教育を受けてきたのですか。話し方が、貴族というより……商人のようです」
フィリアにそう言われて、俺は思わず苦笑した。的を射た指摘だった。
「そう見えるなら、光栄です。数字と向き合う仕事をしていた者の話し方だと思ってください」
その夜、俺は館の一室に地図を広げ、フィリアの帳面と自分の記憶を照らし合わせながら、灰の谷の全体像を整理し直した。
麦の収穫量が落ち続けている原因は、単純な土地の疲弊だけではない。水路の管理が崩壊しているせいで、雨の多い年は洪水が起き、少ない年は水が行き渡らず旱魃になる。つまり、水の管理さえ立て直せば、極端な不作を大きく減らせる可能性がある。
そこまで考えたところで、俺はふと、自分の中に流れ続けているはずの「魔力」のことを思い出した。
サイラス老の言葉では、俺の魔力は体内に留まらず、絶えず大地に流れ込んでいるという。だとすれば、その流れを意識的に強めたり、方向を選んだりすることはできないだろうか。
俺は部屋を出て、館の裏手の畑に降りた。夜風が冷たい。土に手をつけて、目を閉じる。
――流れている、感覚はある。
はっきりとした魔力の像は掴めないが、指先から地面に向かって、何かがゆっくりと染み出していくような感触があった。前世で言うなら、水道の元栓を開けたばかりで、まだ勢いの弱い水が流れているような、そんな感覚だ。
「……何をしているんですか、こんな時間に」
背後から声をかけられ、俺は顔を上げた。フィリアが、館の窓辺からこちらを見ていたらしい。
「土地の状態を確かめていました。少し試したいことがあって」
「試したいこと?」
「まだ確証はありません。ただ、うまくいけば、この土地の水はけの問題を、思っているより早く改善できるかもしれません」
フィリアは訝しげな顔をしながらも、それ以上は問い詰めてこなかった。
「明日、村の長老に会う約束を取っています。今のあなたの話を聞く限り、水路の話をするなら、彼の協力が必要になると思いますが」
「助かります。ぜひ同席してください」
「――言われなくても、同席するつもりでした。この領地の帳簿をつけているのは、私ですから」
フィリアの声には、初めて確かな意志のようなものが感じられた。無価値と呼ばれてきた彼女が、自分の役割を自分の意志で選び直そうとしている、そんな響きだった。
俺は自分の手のひらを見つめた。この手から流れ出ているはずの魔力が、明日、初めて意図した形で試されることになる。うまくいく確信はまだ薄い。だが、前世で誰も見ていない発注データを漁っていた頃と同じ感覚が、体の奥にあった。答えは、動いてみなければ分からない。
俺は夜空を見上げた。前世の記憶にある星とは違う配置の星々が、灰の谷の上に広がっている。
――さて、最初の案件に取り掛かるとしよう。




