灰の谷と、もう一人の無能
灰の谷への道は、馬車に揺られて七日かかった。本領の豊かな農地を抜け、山道を越えるにつれて、景色は徐々に色を失っていく。
最初に目に入ったのは、痩せた土に無理やり根を張ろうとしている、まばらな麦畑だった。畑の脇には、修繕もされずに崩れたままの水路が続いている。前世で言うなら、在庫管理も清掃も放棄されて埃をかぶった店内、といったところだろうか。数字を見る前から、大体の状況が想像できた。
同行していた従者は、灰の谷が近づくにつれて口数が減っていった。彼にとっても、この赴任は不本意なものだったのだろう。誰もが「割の悪い任地」だと分かっている場所に、進んで来たがる者はいない。
道中で立ち寄った中継の町では、宿の主人が顔を曇らせた。
「灰の谷まで行かれるのですか」
ここ十年で三人の代官が着任し、三人とも一年と持たずに戻ってきたという。前世で言うなら、着任早々に離職する店長が続いている店、といった評判だ。悪い評判は、当事者よりも先に、周囲の人間の口から届く。
領主館というにはあまりに簡素な木造の建物の前で、白髪の老執事が出迎えてくれた。
「ルーク様。ようこそおいでくださいました。私はハロルド。長年、この灰の谷を管理してまいりました」
その声には、疲労と、それでも領地を見捨てられなかった責任感が混じっていた。前世で見た、経営が傾いた店舗の店長に、よく似た顔だ。頑張ってはいるが、打つ手がもう尽きている顔だった。
「今の状況を、遠慮なく教えてください。良い話でなくて構いません」
俺がそう言うと、ハロルドは一瞬驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。
「……恐れながら、良い話は一つもございません」
館の中の会議室に案内され、俺は帳簿を広げさせた。数字を見た瞬間、前世で染み付いた癖が勝手に動き出す。収穫量、税収、人口、蓄え。どこも赤字か赤字ぎりぎりだ。しかも数字の付け方自体がずいぶんと荒い。どんぶり勘定という言葉がそのまま当てはまる状態だった。歴代の代官が短期間で入れ替わっていたせいで、帳簿の書式すら統一されていない。
「この帳簿、誰がつけているんですか」
「代官が変わるたびに、それぞれ違う方法でつけておりまして……。実のところ、正確な数字を把握できている者は、今はおりません」
館の裏手に案内されると、屋根の一部が崩れたままの穀物倉が目に入った。
「あちらは、三年前の嵐で壊れてから、直す予算が確保できず、そのままになっております」
ハロルドがぼそりと言った。倉の中を覗くと、雨漏りの跡が黒く残り、貯蔵されていた麦の一部が使えなくなったまま放置されていた。前世で言えば、バックヤードの在庫が管理不能な状態で山積みになっている光景そのものだ。直すべき場所が分かっていても、直す余力がない。金がないから直せず、直さないから被害が広がる。悪循環の典型だった。
「修理にどれくらいかかりますか」
「木材と人手を合わせて、大銀貨で十枚ほどかと」
「今の領地の蓄えは」
「……大銀貨、三枚ほどでございます」
ハロルドの声が小さくなった。数字だけを見れば、詰んでいると言われても仕方のない状況だった。だが、前世でも「予算がないから何もできない」という状態から、工夫だけで小さく状況を動かした経験は何度もある。金がないなら、金をかけない方法を考えるしかない。俺はその崩れた屋根を見上げながら、頭の中で修繕の順番を組み立て始めていた。
「木材を買う金がないなら、切り出せばいい。この谷の周りには、まだ手の入っていない林が残っているはずです。人手も、農閑期に日当を払うより、収穫を分配する形にすれば、蓄えを圧迫せずに動かせるかもしれません」
ハロルドは驚いた顔で俺を見た。
「そのようなやり方は、聞いたことがございませんが……」
「この土地に前例がないだけです。うまくいくかは、やってみないと分かりません」
前世で、予算をほとんどかけずに店舗を改装した時のことを思い出す。壁紙一枚買う金もない状況で、既存の資材を並べ替えるだけで売り場の印象を変えたことがあった。金がないという制約は、時に工夫を生む理由にもなる。
俺は帳簿のページをめくりながら、ふと部屋の隅に置かれた別の帳面に目を留めた。表紙も何もない、ただの覚書のようなものだ。中を見ると、こちらは驚くほど整然とした筆致で、収穫量と天候、税収の変動が細かく記録されている。他の帳簿とはまるで別物の精度だった。
「これは?」
「ああ、それは……フィリア様がつけておられるものです」
「フィリア様?」
「ルーク様の婚約者として、半年ほど前にこちらへいらっしゃった、ダンスコット子爵家のご令嬢です。誰に頼まれたわけでもないのに、毎日領地を歩き回って、記録を取っておられます」
俺は初めて、自分に婚約者がいたことを思い出した。政略結婚というのは、この世界の貴族社会では当然の仕組みだが、当人の実感としては薄いものだ。
「ご案内いたしましょう。ちょうど、村の方に出ておられるかと」
ハロルドに連れられて向かった村の広場で、俺は一人の女性の姿を見つけた。年の頃は俺と同じくらい。簡素な服を纏い、村人たちに混じって収穫物の数を数えている。その手つきと目の動きが、あまりにも速かった。
「――八十三、八十四……よし、袋の数と合っています。前回より少し減っていますね。水の量が足りなかったせいでしょうか」
村人が驚いた顔で頷く。彼女は帳面に何かを書き込みながら、次の作業に移っていった。並んでいる袋の数を、ちらりと見るだけで数えているようにさえ見えた。
俺が近づくと、村人たちの視線が一瞬こちらに向き、それからすっと逸れた。歓迎とは程遠い、値踏みするような目だった。
広場の端で、幼い女の子が一人、フィリアの足元にくっついて数を数える真似をしていた。フィリアは急かすでもなく、時々その子に袋の数を数えさせ、答えが合っていると小さく頷いてやっていた。誰に頼まれた仕事でもないその光景に、俺は妙に心を惹かれた。
広場の隅では、腕を組んだ数人の農夫たちが、こちらを見ながら小声で何かを話していた。聞き取れたのは、諦めの混じった一言だけだった。
「また代官様が変わるのか」
誰も彼らを責める気にはなれなかった。三年で三人も代官が代わる領地に、期待を持ち続けられる者はいない。
「あなたがルーク様ですか」
女性――フィリアは、俺の姿を見てそう言った。特に驚いた様子もない。声にも、あまり感情の色がなかった。
「そうです。あなたがフィリア嬢ですね。今日からお世話になります」
「お世話になる、というのは違うと思います。あなたはこの領地の代理領主で、私はただの婚約者ですから」
淡々とした返答だった。歓迎の言葉一つない代わりに、卑屈な様子もない。ただ、こちらを試しているような、微かな警戒が感じられた。
「先ほど、数を数えていましたね。ずいぶん速かった」
「……気になりますか」
「気になります。あの帳面も見せてもらいました。あなたが書いたものですよね。かなり正確に領地の状況が記録されている」
フィリアの表情が、初めて僅かに動いた。警戒よりも、驚きの色が強かった。
「あれを見て、何か言われるのは初めてです。父も、周囲の者たちも、私が何を数えていても『それが何の役に立つのか』としか言いません。実家では、無価値な娘だと呼ばれてきましたので」
「毎日、こうして村を歩いて数を数えているんですか」
「他にすることがありませんでしたので。誰からも仕事を頼まれませんし、社交の場に呼ばれることもありません。数字を数えていれば、少なくとも自分が何をしているか分かります」
その言葉には、自嘲と、それでも手放さなかった意志の両方が滲んでいた。半年間、誰に評価されるわけでもなく、ただ黙々と領地を歩き続けてきた彼女の姿を、俺は想像した。前世で言うなら、誰も見ていない棚を、毎日欠かさず整理し続けていた新人スタッフに近い。そういう積み重ねは、たいてい誰かが気づくまで、正しく報われることがない。
その言葉に、俺は思わず前世の記憶を重ねてしまった。数字が読める人間の価値を、誰も分かっていない現場を、何度も見てきたからだ。地味な仕事ほど正しく評価されない、という構図は、どの世界でも変わらないらしい。
「無価値なんて、とんでもない。あなたのその帳面がなければ、俺はこの領地の状況を把握するのに、あと三ヶ月はかかっていたと思います」
フィリアはしばらく黙って俺を見つめていた。値踏みするような目が、少しだけ違う色を帯びる。
「……あなたも、この領地では『無能』と呼ばれているのでしょう。魔力ゼロの、次男」
「そうです。無能の次男と、無価値の令嬢。悪くない組み合わせだと思いませんか」
俺がそう言うと、フィリアは初めて、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑ったのか笑っていないのか、判別が難しい程度の変化だったが、それでも確かに変化だった。
「面白いことを言う方ですね。とりあえず、今の領地の状況を全部お話しします。長くなりますが、よろしいですか」
「もちろんです。長い話ほど、重要な情報が詰まっているものですから」
フィリアは帳面を胸に抱え直し、俺を見上げた。
「一つだけ、先に言っておきます。私はこれまで、期待されたことも、頼られたこともほとんどありません。もし本気で私の数字を使うつもりなら、それなりの覚悟をしていただきたいです」
「覚悟なら、もうしています。前の仕事でも、数字を武器にする覚悟のない人間は、結局何も変えられませんでしたから」
フィリアは少しの間、値踏みするように俺を見ていたが、やがて小さく頷いた。
村の広場に、夕方の光が差し込んでいた。俺は帳面を片手に語り出したフィリアの言葉を、一つも漏らさぬよう頭に叩き込みながら、内心でひそかに確信していた。
――この領地には、俺一人ではどうにもならなかった何かを埋める、もう一つの才能がある。




