帰郷
フィリアの帰郷には、俺も同行することにした。ダンスコット領は、灰の谷から馬車で四日ほどの距離にある、決して大きくない領地だった。旅の間、フィリアは、車窓の外を流れる景色を、いつもより多く見つめていた。灰の谷の乾いた土地から、少しずつ、緑の濃い、見慣れない風景に変わっていくのを、俺たちは並んで眺めていた。
「懐かしい、というより、少し息苦しい景色です」
フィリアが、実家の屋敷を見上げながら呟いた。灰の谷ほど荒れてはいないが、手入れの行き届いていない庭や、色褪せた外壁が、この家の財政状況を静かに物語っていた。門をくぐる時、フィリアの足取りが、微かに重くなったのを、俺は見逃さなかった。
ダンスコット子爵は、俺たちを迎えると、あからさまに困惑した顔を見せた。
「――フィリア。婚約の見直しの件は、まだ返答を待っている最中だったはずだが」
「その返答をお伝えしに参りました。ですが、その前に、一つご提案があります」
フィリアは、持参した帳面を卓上に広げた。灰の谷での改革の記録、そしてダンスコット領の地形を踏まえた新しい提案。彼女の声は、実家の中にいるときとは思えないほど、落ち着いていた。
「この領地にも、ヨルガ草に似た薬草が自生している可能性があります。灰の谷の栽培技術を共有し、税制を見直せば、二年ほどで財政の見通しが変わるはずです」
子爵は、娘の口から出る流暢な説明に、明らかに戸惑っていた。目の前に座る娘の姿が、これまで自分が知っていた娘とは、まったく違う人間のように見えているのだろう。
「――お前が、そのようなことを」
「私は、これまで数字を数えることしかできない娘だと思われてきました。ですが、その数字が、灰の谷という土地を立て直す力になりました。この家も、同じように立て直せると思っています」
子爵はしばらく黙り込み、それから重い声で言った。
「もし、その提案が本当に実を結ぶなら――フェアバンク家との縁談は、考え直そう」
「ありがとうございます、父上」
フィリアは深く頭を下げた。その姿を見ながら、俺は静かに、自分の中に湧く感情を確かめていた。誇らしさと、それ以上の、何か別の温かさだった。
子爵は、その後、俺にも、直接話しかけてきた。
「――ルーク殿。娘を、これまで、よく見てくださっていたようだ。恥ずかしながら、私は、娘の才を、正しく見てやれていなかった」
「フィリア嬢の力は、俺が見出したわけではありません。彼女自身が、これまで積み上げてきたものです。俺は、それに気づいただけです」
子爵は、その言葉に、静かに頷いた。その表情には、これまでの威厳めいた硬さが薄れ、代わりに、どこか老いた父親らしい、ばつの悪さのようなものが浮かんでいた。
帰りの馬車の中、フィリアは窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
「――終わった、というより、始まった、という感じがします」
「灰の谷と同じですね。何かを立て直す時は、いつも終わりより、始まりの方が長く感じます」
フィリアは小さく笑い、それから俺の方を見た。
「ルーク様。これから、ダンスコット領の再建にも関わっていただけますか」
「もちろんです。灰の谷と同じように、数字を積み上げていきましょう」
その言葉に、フィリアは、深く安堵したように、小さく微笑んだ。実家との関係が、これから、どう変わっていくのか、まだ不確かな部分は多い。だが、少なくとも、彼女は、もう一人で、その不確かさに向き合う必要はなかった。
馬車は、夕暮れの道を、灰の谷へ向けて進んでいった。窓の外に広がる景色が、少しずつ、見慣れた灰の谷の輪郭に、変わっていくのを、俺たちは並んで見つめていた。車輪が石を跳ねる音と、遠くから響く鳥の鳴き声だけが、静かな車内に響いていた。
道中、フィリアは、これまでの旅で見せたことのない、穏やかな表情を浮かべていた。
「――こんな気持ちで、実家からの帰り道を過ごすのは、初めてです」
フィリアの言葉に、俺は静かに頷いた。灰の谷という土地が、彼女にとって、そしてこれから、ダンスコット領にとっても、確かな支えになっていくことを、俺は、静かに願っていた。
灰の谷に到着すると、ハロルドとダレンが、安堵の表情で出迎えてくれた。館の前に立つ二人の姿を見た瞬間、フィリアの表情が、さらに緩んだのが分かった。
「――お戻りをお待ちしておりました。実家での話、どうなりましたか」
ハロルドの問いに、フィリアは、静かに、そして確かな笑顔で答えた。
「良い方向に進みそうです。これから、灰の谷とダンスコット領、両方のために、力を尽くしていきたいと思います」
その言葉に、ハロルドとダレンは、揃って安堵の表情を見せた。灰の谷の日々は、また新しい課題と共に、静かに続いていくことになった。
その夜、俺は一人、館の裏の畑に立ち、土地の様子を、静かに確かめた。ダンスコット領という、新しい課題が加わったことで、これからの日々は、これまでよりも忙しくなるだろう。それでも、灰の谷という、確かな足場があることが、俺にとって、大きな心の支えになっていた。夜風が、ヨルガ草の葉を静かに揺らし、その音が、俺の耳に、これまでよりも心地よく響いていた。二つの土地の未来を、これから同時に支えていくことになる。その責任の重さを感じながらも、俺の中には、確かな手応えと、静かな期待が、同時に芽生えていた。




