実家からの書状
平穏な日々に影が差したのは、ダンスコット子爵家からの書状が届いた日だった。差出人は、フィリアの父――ダンスコット子爵本人だった。館に届いたその一通の書状は、封蝋の紋章だけで、フィリアの表情を、一瞬で強く硬くさせた。
フィリアは書状を受け取り、しばらく開くのを躊躇っていた。
「読まなくてもいいのなら、そうしたいくらいです」
「一緒に読みましょう」
俺がそう言うと、フィリアは小さく頷き、封を切った。文面は簡潔だったが、内容は重かった。
「――婚約の見直しを検討している、と書かれています。フェアバンク伯爵家から、我が家との縁談の申し入れがあった、と」
俺は思わず眉をひそめた。フェアバンク伯爵家といえば、セドリックが名乗った家だ。ロヴェル侯爵家に対抗するフェアバンク家が、なぜ今、ダンスコット家に縁談を持ちかけているのか。頭の中で、これまでの出来事が、一つの線として繋がっていくのを感じた。
「――おそらく、灰の谷とフェアバンク家を、より強く結びつけたいという狙いでしょう。私を通じてダンスコット家を取り込み、灰の谷への影響力を強める、ということだと思います」
フィリアの声は、努めて冷静だったが、手元の書状を持つ指先は、微かに震えていた。俺は、その震えに気づいていたが、あえて指摘しなかった。今、彼女に必要なのは、感情を押し殺すことを求める言葉ではなく、隣に立ち続けることだと分かっていたからだ。
「実家は、この縁談を、どう考えているのでしょうか」
「――父は、家の再興のためなら、私の意向は二の次にするでしょう。もともと、私とルーク様の婚約自体、家同士の都合で決められたものです」
その言葉に、俺は初めて、はっきりとした苛立ちを感じた。誰かの都合で、フィリアの立場が、また一方的に決められようとしている。前世でも、こうした理不尽な人事や取引を、何度も見てきた。フクヤストアでも、本社の都合だけで、現場の人員配置が一方的に決められ、当事者の声がまったく届かないことが何度もあった。今、目の前で、同じ理不尽さが、フィリアという、俺にとって誰よりも大切な相手に降りかかろうとしている。
「フィリア嬢。あなた自身は、どうしたいですか」
フィリアは俺の顔を見て、しばらく黙っていた。窓の外、夕暮れの光が、彼女の頬を、静かに照らしていた。
「――今さら、そんなことを聞かれても」
「今だからこそ、聞きたいんです。これまで、あなたの意志を、誰も聞いてこなかったのなら、俺だけは違う形で聞きたい」
フィリアは目を伏せ、それから小さく、けれど確かな声で言った。
「私は、灰の谷に残りたいです。この土地で、これまで積み上げてきたものを、簡単に手放したくありません」
その言葉を聞いて、俺は、彼女がこの半年で、確かに変わったことを、改めて実感した。着任した当初、フィリアは、自分の意志を、誰かに伝えることに、ひどく不慣れな様子を見せていた。今、彼女は、自分の望みを、はっきりと、迷いなく口にできるようになっていた。
「それなら、俺たちで、この縁談に対する答えを、きちんと用意しましょう」
窓の外は、いつの間にか日が落ち、灰の谷の空を、夕焼けが赤く染めていた。その夜、俺は一人で、フィリアの実家であるダンスコット子爵領について、これまで知っている限りの情報を、頭の中で整理し直した。決して豊かではない、小さな領地。だが、灰の谷が乗り越えてきた課題と、似た性質を持つ土地でもあるはずだった。
「もし、この縁談に対抗する道があるなら、灰の谷で学んだことが、そのまま使えるかもしれない」
俺は、そう静かに呟き、夜が更けるまで、ダンスコット領の地図を、何度も見返していた。
地図を見つめながら、俺は、この土地の未来について、様々な可能性を、頭の中で組み立てていった。灰の谷で学んだ手法が、そのまま通用する部分もあれば、この土地独自の工夫が必要な部分もあるはずだった。灰の谷で最初に手をつけたのは、税制の見直しと、痩せた土地に合う作物の選定だった。ダンスコット領にも、同じような、まだ見つかっていない突破口があるはずだ。
翌朝、俺はフィリアに、夜通し考えていた案を伝えた。目の下には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいたが、それ以上に、確かな手応えを感じている自分がいた。
「ダンスコット領の再建に、灰の谷の技術を役立てる提案をするなら、単なる口約束ではなく、具体的な数字を持って行くべきだと思います」
「それには、実家の領地について、もっと詳しい情報が必要ですね」
「はい。まずは、ダレンさんの伝手を使って、できるだけ多くの情報を集めましょう」
俺たちは、その日から、ダンスコット領についての調査を、本格的に始めることにした。
調査は、思っていたよりも時間のかかる作業だった。ダンスコット領の記録は、灰の谷以上に整理が行き届いておらず、フィリアは、実家の帳簿の杜撰さに、何度も溜息をついていた。
「これでは、父も、本当の財政状況を、正しく把握できていなかったはずです」
「灰の谷も、最初はこうでした。整理することそのものが、最初の、そして最も大切な仕事です」
俺の言葉に、フィリアは、気持ちを立て直すように、静かに頷き、また帳面に向き合い始めた。
数日後、ダレンが、ダンスコット領の隣接領地から、追加の情報を集めてきた。
「隣のオーレン子爵領でも、似たような薬草が自生しているという記録があります。もし、ダンスコット領でも同じ植生があるなら、栽培の見通しは、かなり明るいと思われます」
「これで、提案の説得力が、また少し増しますね」
フィリアが、その情報を、丁寧に資料に書き加えていった。彼女の手つきには、もはや、実家への遠慮や躊躇いは見られなかった。
「父に見せる資料は、感情に訴えるものではなく、あくまで、数字と根拠で語るものにしたいです」
「それが、あなたらしいやり方だと思います」
夜が更けるまで、俺たちは資料の作成を続けた。灯りの下、フィリアの筆先が紙を擦る音だけが、静かに部屋に響いていた。数字を数えるだけの娘ではなく、その数字で、実家という、これまで最も自分を苦しめてきた場所と、正面から向き合おうとしている。その勇気を、俺は、静かに支えたいと思った。




