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二人の距離

セドリックの訪問以来、灰の谷の空気には、これまでとは違う緊張感が漂うようになった。だが、日々の仕事そのものは、変わらず続いていく。ヨルガ草の収穫、相互扶助の蔵の管理、近隣領との交易の調整。数字は毎日積み重なり、フィリアの帳面は、いつの間にか十冊を超えるまでになっていた。

ある晩、遅くまで帳簿を照らし合わせていた俺たちは、気づかぬうちに肩が触れ合うほど近くに座っていた。会議室の燭台の火は、いつもより長く灯され続けていた。窓の外は完全に夜の色に沈み、遠くで犬の鳴き声が一度だけ響いた。

「――少し、疲れましたね」

フィリアがそう言って、筆を置いた。彼女の目元には、微かな疲労の色が浮かんでいたが、その表情には、以前のような緊張した硬さはなかった。

「休みましょう。数字は、明日も同じ場所で待っています」

俺がそう言うと、フィリアは小さく笑った。

「あなたのそういう言い方、前の仕事で染み付いたものですか」

「そうです。急いで倒れても、誰も得をしません」

前世で、俺自身が過労で命を落としたという事実が、今の俺の言葉の裏には、常にある。無理を重ねることの結末を、俺は誰よりも知っていた。

窓の外には、ヨルガ草の畑が、月明かりの下で静かに広がっていた。フィリアはしばらくその景色を眺め、それからぽつりと言った。

「――もし、あなたが辺境に送られてこなかったら、私はこの半年、どうなっていたでしょうか」

「分かりません。ただ、あなたの帳面は、俺が来る前から、すでに正確でした。誰かがいつか、その価値に気づいたと思います」

「あなたが気づいてくれたことが、私にとっては大きいんです」

その言葉には、これまでのフィリアからは聞いたことのない、素直な響きがあった。俺は少しの間、何も言えなかった。仕事の場では、いくらでも的確な言葉を選べる自分が、こういう瞬間には、途端に不器用になる。

「――俺も、あなたの数字がなければ、ここまで来られませんでした」

ぎこちない返答だったが、フィリアはそれで十分だという顔をして、小さく微笑んだ。

会議室の隅に置かれた燭台の火が、ゆっくりと燃え尽きかけていた。ダレンも書記官も、とうに仕事を終えて自室に戻っている。館の中は、二人の話し声だけが響く、静かな時間だった。

「ここに来てから、私は初めて、夜が怖くなくなりました」

フィリアがそう言った。

「実家にいた頃は、夜になると、翌日また誰かに何かを否定されるのではないかと、考えてしまっていました。ここでは、そういう不安が、少しずつ薄れていきました」

その言葉に、俺は、彼女が実家で過ごしてきた年月の重さを、改めて感じ取った。「無価値」と呼ばれ続けた娘が、夜ごと、翌日への不安に苛まれていたであろうことを想像すると、胸の奥が静かに痛んだ。

その夜、俺たちはそれ以上多くを語らなかった。ただ、館に戻る短い道のりを、二人分の足音だけが、いつもより少しだけ近い距離で響いていた。

俺は、その静かな道のりの中で、前世のことを、ふと思い出していた。あの頃の俺には、こうして誰かと、言葉少なに、それでも確かな安心を分かち合いながら歩く時間など、一度もなかった。仕事に追われ、人と深く関わる余裕もなく、ただ時間だけが、過ぎていった。今、この土地で、こうした時間を持てていることが、どれほど貴重なことか、俺は改めて実感していた。

途中、村の外れを通りかかると、まだ起きていたミラの家の灯りが、小さく揺れているのが見えた。フィリアがその灯りを見て、ふと足を止めた。

「この土地の灯りが、以前より増えた気がします」

「実際に増えています。移住してきた家が二世帯、それに、夜まで作業をする農家も増えました。以前は、日が落ちればすぐに真っ暗になる土地でしたから」

「――そうですね。灯りが増えるというのは、思っていたより、嬉しいことなんですね」

フィリアの声には、静かな満足があった。俺も、その言葉に、静かに頷いた。灯りの一つ一つが、この土地に暮らす人々の、確かな日々を、映し出していた。

翌朝、いつも通りの仕事が始まった。だが、俺とフィリアの間には、これまでよりも確かな、言葉にしなくても伝わるものが増えていた。フィリアは、いつものように帳面を開き、静かに、そして確かな手つきで、その日の記録を書き始めた。俺は、その姿を、少し離れた場所から、しばらく見つめていた。朝の光が、彼女の手元を、柔らかく照らしていた。

その日の昼、ダレンが、少し気を遣うような様子で、俺に声をかけてきた。

「ルーク様とフィリア様の間柄が、以前よりも、親密になられたご様子ですね」

「――分かりやすいですか」

「はい。館の空気が、少し変わりました」

ダレンの言葉に、俺は少し照れながらも、静かに頷いた。灰の谷の日々は、こうした小さな変化を、一つ一つ、確かに積み重ねていた。

フィリアもまた、こうした館の空気の変化を、静かに受け止めていた。夜、帳面を閉じた後、彼女は、時折、窓辺に立ち、灰の谷の夜景を、長く眺めるようになっていた。これまでの彼女は、常に数字と向き合うことに時間を使っていたが、今は、その合間に、こうした静かな時間を、自分から作るようになっていた。かつて、無価値と呼ばれ、誰にも顧みられなかった娘が、今は、確かな居場所と、確かな相手を、この土地で見つけていた。館の使用人たちの間でも、フィリアの表情が、以前より柔らかくなったという噪が、静かに広がっていた。誰もそれを、大げさに言葉にすることはなかったが、灰の谷という土地全体が、その小さな変化を、確かに見守っているようだった。

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