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セドリックの正体

セドリックと名乗った男が再び灰の谷を訪れたのは、初めての訪問から一月後のことだった。前回とは違い、今回は最初から包み隠さない態度で会議室に座った。窓の外はすでに夕暮れが近づき、会議室には、蝋燭の火が一つ、静かに灯されていた。

「先日は、名を明かせず失礼いたしました。私は、ロヴェル侯爵家に対抗する立場にある、フェアバンク伯爵家の家人です」

その言葉に、俺とフィリアは思わず身を固くした。ロヴェル侯爵家の名前が、こちらから出す前に、相手の口から語られた。ダレンが調べてくれた情報と、確かに一致していた。

「フェアバンク伯爵家という名は、恥ずかしながら初めて耳にしました」

俺がそう言うと、セドリックは小さく頷いた。

「無理もございません。フェアバンク家は、表舞台に出ることを好まぬ家でございます。派手な政治的発言は避け、商業と情報網を通じて、静かに力を蓄えることを主義としております。ロヴェル侯爵家のような、正面から権勢を広げる家とは、やり方が対照的です」

「その二つの家が、なぜ対立しているのですか」

「三代前、両家が同じ航路の利権を争ったことが、そもそもの因縁です。以来、商業のあらゆる場面で、目立たぬ形の駆け引きが続いております。灰の谷のヨルガ草も、その駆け引きの新しい舞台の一つに過ぎません」

三代前から続く因縁――その言葉の重みを、俺は静かに受け止めた。灰の谷が抱えていた財政難や気候の問題は、この土地だけの、比較的単純な課題だった。だが、王都の大貴族家同士の対立は、何十年、何世代にもわたって積み重ねられた、もっと根深いものだ。

「フェアバンク家が、灰の谷そのものを取り込もうとしている可能性は、ないのですか」

俺は率直に尋ねた。セドリックは、その問いを予期していたかのように、落ち着いた声で答えた。

「否定はいたしません。ですが、我が主人は、力で押さえつけるより、信頼で結びつく相手を好みます。灰の谷が独立した力を持ち続けることこそが、我が主人にとっての利益になる、という考えです」

その説明が、どこまで本当かは分からない。ただ、少なくとも今の段階で、フェアバンク家が灰の谷に敵対する動きを見せていないことは確かだった。フィリアが、卓上の帳面に、セドリックの言葉を、一言一句、丁寧に書き留めていく。

「なぜ、我々にそれを明かすのですか」

俺が尋ねると、セドリックは静かに答えた。

「灰の谷が、ロヴェル侯爵家の資金源になるようなことがあれば、我が主人にとっても望ましくありません。逆に、灰の谷がロヴェル侯爵家の影響から独立した形で発展するのであれば、我が主人はそれを支援したいと考えております」

利害の一致、という言葉が頭に浮かんだ。前世でも、競合する二つの取引先の間で、板挟みになりながらも、うまく双方の利益を調整することで、結果的に自分の立場を強くする場面は何度もあった。

「支援というのは、具体的にどのような形を想定していますか」

「まずは、情報です。ロヴェル侯爵家とグレッグ商会の動きについて、我が家の伝手で分かる範囲は共有いたします。見返りは、今すぐには求めません」

即座に信頼するには、材料が足りなかった。だが、断る理由もなかった。

「情報はありがたく受け取ります。ただ、灰の谷は、どちらの家の傘下に入るつもりもありません。中立の立場で、この土地を守ることが、俺たちの目的です」

セドリックは、その返答に小さく笑みを浮かべた。

「それでこそ、こちらとしても信頼できます。灰の谷の中立性が保たれること自体が、ロヴェル侯爵家の一方的な拡大を防ぐことに繋がりますので」

会談が終わった後、フィリアが静かに呟いた。蝋燭の火が、彼女の横顔を、静かに照らしていた。

「灰の谷は、いつの間にか、大きな駒の一つになってしまったのですね」

「駒ではなく、盤面そのものになれればいいと思っています。誰かに動かされるより、自分たちで場を作る側に立ちたい」

その言葉に、フィリアは少し驚いた顔を見せ、それから小さく頷いた。会談の後、俺はダレンにも会談の内容を伝えた。ダレンは険しい顔で、しばらく考え込んでいた。

「二つの大貴族家の間に立つというのは、綱渡りのようなものです。どちらか一方に肩入れすれば、もう一方を確実に敵に回します」

「分かっています。だからこそ、どちらにも肩入れしない、という立場を、はっきりと示す必要があります」

「それができれば理想的ですが、力の弱い者が中立を保つのは、簡単なことではありません」

フィリアが、その言葉に、静かに付け加えた。

「灰の谷が、今よりもっと豊かになり、周辺の領地にとっても、なくてはならない存在になれば、両家のどちらも、簡単には、私たちを無視できなくなります。それが、一番確かな中立の守り方だと思います」

ダレンの言葉は、現実的な警告だった。灰の谷は、まだ十分な力を持った領地ではない。中立を保つためには、両家のどちらからも、無視できない存在になる必要がある。前世でも、力の弱い企業が、大企業同士の競争の間で中立を保とうとして、結局はどちらかに吸収されてしまう例を、俺は何度も見てきた。

「今、俺たちにできることは、灰の谷自体をもっと豊かにすることです。力がなければ、中立という立場そのものが、意味を持ちません」

ダレンも、その考えに、静かに同意した。

「私も、これまでの経験から、同じことを感じております。力のない者の中立は、いずれ、どちらかに飲み込まれる運命にあります。灰の谷は、まだ、その運命から完全に自由になったわけではありません」

窓の外は、いつの間にか夜の色に包まれていた。会議室に残るのは、俺とフィリア、そしてダレンの三人だけだった。蝋燭の火が、静かに揺れる中、俺たちは、これから灰の谷が歩むべき道について、しばらく黙って、それぞれの考えを巡らせていた。この土地が、単なる駒ではなく、確かな力を持った存在になるまでには、まだ多くの時間と、地道な積み重ねが必要になる。その事実を、俺たちは、それぞれの立場で、静かに噬みしめていた。

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